三島由紀夫氏は、かれの エッセー 「裸体と衣裳」 のなかで以下の文を綴っています。
ジイド が日記の中で、制作中の作品について、「今日も、この
大きな固まりを、ほんの少し前へ動かすことに熱中した」 と書いて
ゐるが、長篇に永いあひだ携わつてゐると、ジイド の表現がいかに
適切であるかが思はれる。
この思い──三島由紀夫氏の同感──を、モデル の体系を作っている システム・エンジニア も抱いているでしょうね。およそ、なんらかの まとまった 体系を作ることに携わっているひとが感じる思いでしょうね。「この大きな固まりを、ほんの少し前に動かすこと」 は、なかなか思い通りにはいかないのですが、そして、「この大きな固まり」 を動かすために、数年あるいは 10数年も費やすこともあるのですが、「動かすことに熱中した」 という感覚は実際に そういう仕事をやっているひとにしか実感できない感覚でしょうね。「この大きな固まり」 とは、私にとって、TM がそうです。
三島由紀夫氏は、上述した文のあとで、以下の文を綴っています。
最も卑俗的なものを最も悲劇的なものに高めなければならぬ。
私も小説家としてさう考える。
小説家であれば、そうなのでしょうね。モデル を作る システム・エンジニア であれば、さしずめ、以下のように言うことができるでしょう。
最も卑俗的なものを最も形式的なものに高めなければならぬ。
そして、それを実現する テクニック は非常に高度で難しい、、、その テクニック を習得するには、そうとうな年数を費やさなければならないし、じぶんの抱いている モデル 観に適する数学的 テクニック を少しずつ体得しつつ、体得した テクニック を使って 「この大きな固まりを少し前に動かす」 ように悪戦苦闘するというのが モデル 作りの仕事です。そして、その仕事は熱中しなければできないでしょうね。単に テクニック を習得して テクニック さえ体得していれば、「この大きな固まりを少し前へ動かす」 ことができる訳ではない──「ほんの少し前へ動かすことに熱中した」 という言いかたは、我が身を振り返ってみれば、まさに正鵠を射た言いかただと思います。
(2009年 3月23日)