三島由紀夫氏は、かれの エッセー 「アポロ の杯」 のなかで以下の文を綴っています。
曲芸師は肉体の平衡を極限まで追ひつめて見せる。しかしかれら
はそのすれすれの限界を知つてをり、そこでかれらは引返して来て、
微笑を含んで観衆の喝采い答へるのである。かれらは決して人間を
踏み越えない。しかしわれわれの精神は、曲芸師同様の危険を冒し
ながら、それと知らずいやすやすと人間を踏み越えてゐる場合が
あるかもしれない。
思惟が人間を超えうるかどうかは、困難な問題である。超えうる
といふ仮定が宗教をつくり、哲学を生んだのであつたが、宗教家や
哲学者は正気の埒 (らち) 内にある限り曲芸師の生活智をわれしらず
保つてゐるのかもしれない。もし平衡が破られたとき実は失墜がすで
に起つてをり、精神は曲馬の円い舞台に落ちて、すでに息絶えてゐる
かもしれないが、そののち肉体が永く生きつづけるままに、人々は
彼の死を信じないにちがひない。
狂気や死にちかい芸術家の作品が一そう平静なのは、そこに追ひ
つめられた平衡が、破局とすれすれの状態で保たれてゐるからである。
そこではむしろ、平衡がふだんよりも一そう露 (あら) わなのだ。
たとへばわれわれは歩行の場合に平衡を意識しないが、綱渡りの
場合には意識せざるをえないのと同じである。
三島由紀夫氏は小説家なので、「芸術作品」 の観点に立って上述した文を綴っていますが、かれが綴った論旨は、そのまま、システム・エンジニア が構成する 「モデル」 にも当て嵌まります──特に、「作品が一そう平静なのは、そこに追ひつめられた平衡が、破局とすれすれの状態で保たれてゐるからである。そこではむしろ、平衡がふだんよりも一そう露わなのだ。」 と件 (くだり) は、まさに、「モデル」 の性質を的確に表しているでしょう。そして、この感覚のない システム・エンジニア は、以前 「反 コンピュータ 的断章」 で綴った 「幸福感」 を感じることができないでしょうし、そういう エンジニア が構成した 「モデル」 は ポンチ 絵にすぎないでしょうね。現実的事態を 「正確に」 記述する 「モデル」 の妙味は、この 「破綻とすれすれの平衡」 にあると云っていいでしょう。
三島由紀夫氏は、上述した文に続けて、以下の文を綴っています。
しかし悲しいかな、人間の肉体も精神も、このやうな危険な均衡の
ためにだけ生きてゐるのではない。曲芸師は単に一個の職業であつて、
満場の観衆は感嘆し拍手を吝まないが、誰も曲芸師を羨んだり、曲芸師
になりたいと思つて見物してゐるわけではない。
われわれの精神もかうした危険な平衡を保つためにばかり調練され
ると、遂にはそれが職業的なものに堕してしまふ危険がある。調教
は熟練を要求するが、熟練が時として技術に固定してしまふのは自然
である。(略)
危険はわれわれの精神をして平衡へ赴かしめる。しかしそれは予期
された危険であつてはならないのだ。反復される危険も危険である
ことには変りはないけれど、それはいつしか抽象的な危険になる。
あの危険、この危険、今の危険、この次の危険、それから一つの抽象
的な危険が編み出されてくる。しかしわれわれの生きてゐる精神が
会ふべき危険は、具体的な危険でなければならないのだ。
さすがに、第一級の小説家が観る視点は鋭いですね。そして、文学者は、この 「具体的な危険」 と直面して、「具体的な危険」 が 「抽象的な危険」 に変形するすれすれの所で叙述を成すのでしょうね──そうやって 「作られた」 構成が作品なのでしょうね。
さて、システム・エンジニア も、幸いに、つねに、「具体的な危険」 と向き合います。しかし、その 「具体的な危険」 を一般化して 「抽象的な危険」 に すり替えてしまったのが──いな、たぶん、順序が逆であって、はじめに 「抽象的な危険」 を学習して、その後で、「具体的な危険」 を体験して、しかも、その 「具体的な危険」 を直視しないで 「抽象的な危険」 のなかに包括して対応しようとするのが──、「習之罪」 でしょうね。そういう態度は、単純に言えば、「公式」 を知っていても──いな、「公式」 を知っているのではなくて、単に 「知っているつもり」 に陥っているにすぎないのですが──応用力のない状態です。したがって、そういうふうに装う システム・エンジニア は偽物にすぎない。
「曲芸師は単に一個の職業であつて、満場の観衆は感嘆し拍手を吝まないが、誰も曲芸師を羨んだり、曲芸師になりたいと思つて見物してゐるわけではない」 という意見は、(曲芸師のような危険な職業に限らず、) およそ、専門化された職業に対して言い得ることでしょう。その点に 専門家の悲しさが宿るのでしょうね。なぜなら、専門家は、多くの人たちが 「共有できる (あるいは、共感できる)」 構成物を作っていながら、それを作る職業人としては、職業上、「極度の限定性」 を免れないから。この点について、亀井勝一郎氏は、以下の文を綴っています。
或る一つの事を徹底的に追究すると、必ず他の方で大きな穴が生ずる
ものだ。人はそれを偏狭とよび畸形というかもしれない。だが、仏典
ではかかる精神を人格化して羅漢と名づけた。羅漢は菩薩の位には
はるかに遠いかもしれぬ。しかし羅漢は菩薩の位を継ぐ唯一の候補者
である。
(2009年 4月 1日)