三島由紀夫氏は、かれの エッセー 「私の遍歴時代」 のなかで以下の文を綴っています。
このごろの新人に比べて、私の新人時代がつくづく倖せであつた
と思ふのは (これは私が花々しい デビュー をしなかつたせゐでも
あるが)、きはめて スローモー に仕事を進めてゆけたことである。
今のやうに芥川賞をとつてたちまち モミクチャ にされるといふこと
もなく、二、三の週刊誌も文壇の埒外にあり、中間小説もまだ盛んで
なく、推理小説と テレビ はまだ影も形もなく、・・・これら全部の
代はりに隆替のはげしい文芸雑誌が沢山あつて、いはゆる 「純文学」
の短篇の勉強を、注文に応じてゆつくりやつていける状態にあつた。
(略)
一体私自身が 「戦後派」 であるのかないのか、そんなことは私の
知つたことぢやないが、当時の空気は、かりにも 「戦後派」 的 レッテル
がはられてゐなくては、時代おくれの旧文学と目されるほかなく、その
中間形態、あるひは独自の存在などといふものは、少なくとも新進作家
の間ではみとめられてゐなかつた。私はその嵐のなかで、旧文学にも
あきたらず、新文学も食ひ足りぬ、といふ心境が本心だつたが、考へて
みると、それから今日まで十五年間、私はたえず、
「旧文学にもあきたらず、新文学にも食ひ足りぬ」
といふ念仏を内心唱へつづけてきたやうなものだ。だから私にはつひぞ
「我世の春」 といふやうな心境は来なかつたのである。
以上に引用した文は、まさに、私 (佐藤正美) の気持ちを代弁してくれている文です。今振り返ってみれば、時代の さながらの偶然で、私は、1980年代、日本に RDB (リレーショナル・データベース) を導入・普及する仕事に就きました。私は、本来、MRP の パッケージ を日本に導入する仕事をやりたかったのですが──実際、当初、その仕事に就いていたのですが、パッケージ を日本語化した直後に、RDB を担当するように会社の辞令が出て、RDB に携わるようになった次第ですが──、日本には いまだ存在しない RDB を学習するために米国に赴いて RDB を学んで、日本のなかに普及する仕事に専念することになりました。当時は、RDB を説明しても、轟轟たる非難を浴びて──「そんな子どもの オモチャ は、現場では使えない」 というような非難を浴びて──、当時の私の上司たちのほかは すべて 「敵」 であるというような状態で仕事を進めてきました。世間から叩かれるばかりで、賞められたことなどなかった。
ただ、当時、世間は私を非難してはいましたが、いっぽうで、ひとりの システム・エンジニア が懸命になってやろうとしていることを温かく (興味津々に ?) 見守る ゆとり も持っていました。実際、私は、講演などの公の場で、コッド 関係 モデル に関する 「解釈」 において、いくども ミス をしたのですが、聴いてくださった人たちは、そういう ミス を論うことをしないで、「次の機会に、どういうことを伝えてくれるのか」 という期待を抱いてくださった (感謝)。私は、学習を進めるうえで (ミス を犯しながらも、) 公の場で講演を続けて生長していった次第です。ちなみに、当時、ユーザ 企業の システム・エンジニア たちは、ジェームス・マーチン 氏の著作を (たとえ、原文ではないにしても、) 翻訳で読んで、IE (Information Engineering) を学習していたほどに、技術に関する知識を学習していました。だから、私が ミス をすれば、私の ミス や 曖昧な点に対して かれらから直ぐに質問がでました。三島氏が、「きわめて スローモー に仕事を進めてゆけた」 と綴り、「いはゆる 『純文学』 の短篇の勉強を、注文に応じてゆつくりやつていける状態にあつた」 と記した点を、私は、私の コンピュータ 技術 (データベース に関する技術) の学習において、実感しています。そして、そういう状態のなかで、私は生長できたと思っています。
1980年代に RDB を日本に導入・普及する仕事に就いていた頃、私は、いわゆる 「DOA (Data-Oriented Approach)」 に属する エンジニア だとみなされていましたし、私自身も、「DOA」 派の一員であることを標榜していました。ただ、1990年代になって、私は、「DOA」 派の一員であると云われることに対して、少なからず、抵抗を感じるようになっていました。そう感じるようになった理由は、当時、「DOA」 の観点に立って作ったT字形 ER手法を整えるにつれて、明らかに、私は、「DOA」 ではないと思うようになったからです──そして、その感を確実に確認したのが拙著 「論理 データベース 論考」 を脱稿したときでした。
ただ、ちょうど そのとき、「DOA+ コンソーシアム」 が設立されて、私も発起人の一人に名を連ねました。私は 「DOA」 派でないと気づいた時点で、どうして、「DOA+ コンソーシアム」 の発起人になったのかという理由は、設立の趣旨が 「データベース の設計法を普及する」 という点にあったからです。当時、オブジェクト 指向が急進してきて、データベース が追いやられた感があって、データベース が軽視される危機感を私は抱いていました。というのは、私にとって、オブジェクト 指向は目新しい技術ではなくて、コッド 関係 モデル と同じ頃に生まれた技術だから。ただ、Internet が普及して Java が マーケット にでてきて、オブジェクト 指向が荒波のようにうねって マーケット を席巻していました。私自身は、オブジェクト 指向を専門にしていませんが、拙著 「リポジトリ 入門解説」 (1991年出版) のなかで、すでに オブジェクト 指向について言及していました──というのは、当時、IBM/Repository が オブジェクト 概念を導入しようとしていたので。私にしてみれば、コッド 関係 モデル と オブジェクト 指向 のちがいは、数学的に言えば、クラス 概念使用の有無でしかないと判断していました。そして、当時、T字形 ER手法は、コッド 関係 モデル と同じように、セット 概念しか使わないという前提に立っていたのですが、数学的に家族的類似性の強い オブジェクト 指向に対して親近感を抱いていたのですが──少なくとも、数学基礎論を学習しないで、データベース の 「モデル」 を論じている人たちに対するよりも、オブジェクト 指向の人たち [ ただし、1970年代から、正統に・正当に、オブジェクト 指向を学習してきている SmallTalk 系の人たち ] に対して親近感を抱いていたのですが──、世間が データベース を軽視する風潮に対して、私は怒りを感じていたので、「DOA+ コンソーシアム」 の発起人になった次第です。
ただ、「DOA+ コンソーシアム」 に属してみて はっきりわかったことは、日本の 「DOA」 が、やはり、私の やりかた とは家族的類似性がない、という点でした。寧ろ、オブジェクト 指向のほうが、数学的観点で、私と家族的類似性が強い。そして、T字形 ER手法が扱いかねていた いわゆる 「HDR-DTL」 構成 (数学的には、many-valued function) は、クラス 概念を使ったほうが単純に説明しやすいことがわかって、T字形 ER手法を再体系化して TM として整えた時点で、私は クラス 概念を (TM のなかに) 導入しました。ただ、現時点では、データベース として RDB を対象にしているので、クラス 概念を中核にしていないのですが、いつでも、クラス 概念を TM のなかで全面的に使用できる構成にしてあります。昔のT字形 ER手法を TM というふうに改称した理由の ひとつは、クラス 概念の導入にありました。そして、この時点で、私は、三島由紀夫氏の云う 「旧文学にもあきたらず」 という感を抱いていて、「DOA」 から離れた次第です。
いっぽうで、オブジェクト 指向に移らない理由は、──データベース が RDB であるという現実的事態もあるのですが、寧ろ、──TM が事業過程・管理過程を 「言語」 の観点に立って解析するという言語哲学的性質があるので、三島氏の云う 「新文学にも食ひ足りぬ」 という気持ちを抱いています。そして、「今日まで十五年間、私はたえず、『旧文学にもあきたらず、新文学にも食ひ足りぬ』 といふ念仏を内心唱へつづけてきたやうなものだ。だから私にはつひぞ 『我世の春』 といふやうな心境は来なかつたのである」──三島氏が吐露した気持ちを私は実感しています。三島氏のような天才的な小説家は、それでも、作品が古典として遺りますが、私のような一介の システム・エンジニア においては、齢 (よわい) すでに 55 にして 今までの来しかたを振り返ってみれば、悪戦苦闘ばかりが続いた 「惨めな人生」 の足跡しか残っていない、、、。
(2009年 4月 8日)