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The feather makes not the bird.

 

 2009年 4月23日付け 「反文芸的断章」 のなかで、三島由紀夫氏のエッセー 「団蔵・芸道」 のなかから以下の文を引用しました。

    ...現代一流歌舞伎俳優の、その浅墓 (あさはか) な心事と、おごり
    高ぶつた生活態度を、団蔵はじつと我慢して眺めてゐた。そして、
    現代では重んじられてゐる俳優たち、世間や取巻きから名優扱ひ
    されてゐる連中の、実は低い浅薄な芸風を、団蔵はちやんと見抜い
    てゐて、口には出さずに、
    「何だ、大きな顔をして、大根どもが」
     と思つてゐたにちがひない。
     団蔵はもちろんひろい世間は知らなかつたらうが、歌舞伎界の
    人情紙のごとき状態と、そこに生きる人間の悲惨を見尽して、この
    小天地に世間一般の腐敗の縮図を発見してゐたに相違ない。
    歌舞伎の衰退の真因が、歌舞伎俳優の下らない己惚 (うぬぼ) れ
    と、その芸術的精神の衰退と、マンネリズム とにあることを、団蔵は
    誰よりもよく透視してゐたのであらう。

 そして、「反文芸的断章」 のなかで、上述の引用文を材料にして 「反 コンピュータ 的断章」 を綴ることができる、とも記述しました。さて、そう述べたように、この引用文を材料にして 「反 コンピュータ 的断章」 を綴ってみます。データ 設計に関する書物を執筆してきた人たちに対して、「何だ、大きな顔をして、大根どもが」 と言うほどの強心臓を私は持っていませんが、少なくとも、以下の文を コンピュータ 業界の現実として言い換えることはできます。

    歌舞伎の衰退の真因が、歌舞伎俳優の下らない己惚 (うぬぼ) れ
    と、その芸術的精神の衰退と、マンネリズム とにあることを、団蔵は
    誰よりもよく透視してゐたのであらう。

 言い換え文は、以下のとおり。

    データ・モデル の衰退の真因が、システム・エンジニア の下らない
    己惚れと、その論理的精神の衰退と、マンネリズム とにある。

 システム・エンジニア の 「下らない己惚れ」 というのは、システム・エンジニア が 「事業を設計できる」 というふうに思いあがっていることです。そういう己惚れが、荒っぽい構成図を トップダウン で描いて 「事業は こうあるべきだ」 (「to-be」 は こうあるべきだ) と思い違いして、「事業を設計している」 という思いこみを生むのでしょうね。事業のなかで実施されている行為 (および、取引) には、様々な制約・束縛が付帯しているということを無視しているような構成図など モデル ではないし──なぜなら、「完全性」 を欠落しているから──、そもそも、「to-be」 などという状態が ひとつ (one and only) である訳がない。もし、「to-be」 と称する状態が ユーザ の今後やりたがっている状態であれば、それは 「改善」 なのであって、いまの状態を無視して考えることなどできないし、そして、もし、いまの状態を描くのであれば、制約・束縛を正確に記述していなければならないでしょう。

 「その論理的精神の衰退」 というのは、システム・エンジニア が ロジック を無視して、みずからの推測・判断で 「構成」 を作っているということです。システム を設計する職責にある システム・エンジニア が ロジック を忘れることなどあってはならない。というのは、システム は、そもそも、無矛盾性・完全性を実現していなければならないのだから。この無矛盾性・完全性は、なにも、コンピュータ・システム に限ったことではなくて、事業過程・管理過程でも要請される性質です──その具体的な例が、「内部統制」 制度です。取引において、100 という数値が記帳されたにもかかわらず、それを報告する段階で、相違する数値に変えれば改竄になって 「事実 (F-真)」 に対して不完全ですし、虚構 (無い物を有るとすること) や隠蔽 (有る物を無いとすること) も 「事実 (F-真)」 に対して不完全です。完全性 (意味論的に、事実に対して 「真」 であること) は、事業を営むうえで、当然の要請です。そして、もし、事業のなかに、なんらかの演算構造が導入されているのならば──その演算構造には、コンピュータ・システム の プログラム もふくみますが──、演算のなかで矛盾が起こらないこと (無矛盾性) を要請するのは、事業を営むうえで当然でしょう。

 「マンネリズム」 というのは、いわゆる 「上流工程」 とよばれている段階での作業が、「システム・エンジニア の下らない己惚れ」 と 「その論理的精神の衰退」 に頼って 1970年代から今に至るまで継承されているということです。DFD や ERD は、それらの名称 (Diagramming という名称) が示しているように 「画法」 であって、モデル ではない。それらの 「画法」 が ロジック を前提にして描かれていれば、なんら問題はないのですが、システム・エンジニア が ロジック を前提にしないで描いている点が 「でたらめな行為」 である、と私は非難しているのです。

 
 (2009年 4月23日)

 

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