三島由紀夫氏は、かれの エッセー 「小説家の休暇」 のなかで、以下の文を綴っています。
芸術家の明敏さとは、三つのものから成立つといふのが私の考へ
である。第一に素材 (主題と云ひかへてもよい) について
すみずみまで吟味し知悉すること、第二に制作の方法論について
完全に通暁してゐること、第三に自分がそれを書く上の精神的
肉体的諸条件について十分な推測のもとに立つこと、この三つ
である。かかる明敏さは、芸術家たるものの道徳でもあり、
それのみが持続と、作品の各部の均質化を可能にする。
この引用文は、原文の エッセー では、「反 コンピュータ 的断章」 で以前に引用した かれの文 (芸術家の スランプ について) といっしょに記されています。
さて、三島氏が述べている 「芸術家の明敏さ」 は、そのまま、システム・エンジニア にも当て嵌まるでしょう──たぶん、およそ、なんらかの 「形式」 を作るひと すべてに当て嵌まるのではないでしょうか。
かれが第一に述べている 「素材 (あるいは、主題) をすみずみまで吟味し知悉する」 ことは、第二の 「制作の方法論について完全に通暁している」 ことと相互作用があると私には思われます。というのは、システム・エンジニア は モデル を作る過程で現実的事態に通暁するほかにないから。とすれば、「制作の方法論について完全に通暁している」 ことが システム・エンジニア の仕事の起点になるということです。
システム・エンジニア は、素材によって文体を変えなくてもいいので、芸術家に比べて、「形式化」 の技術という点では、楽なのかもしれない。もっとも、システム・エンジニア が実施すべき 「形式化」 を思い違いして、現実的事態を形式化するつど、じぶんの 「経験」 を頼りにして現実的事態を解釈しようと苦労している人たちが多いようです (苦笑)。以前にも述べましたが、現実的事態 (あるいは、フィクション) を 「文体」 で表現するのが小説であるのなら、われわれ システム・エンジニア の仕事との違いは、われわれは 「論理法則」 を使って構成する、という点でしょう。システム・エンジニア が モデル を構成するときに、小説と同じ やりかた をしたならば、そんな モデル など三文小説にも値しないでしょうね。小説家は 「自然言語」 を使って 「美 (たぶん、真とか善などもふくまれるのでしょうが)」 を表現しますが、われわれ システム・エンジニア は、「自然言語」 で記述された 「意味」 を変形しないで形式的構成として記述します。
現実的事態の解釈 (言い換えれば、「自然言語」 を使って記述された 「意味」) は、すでに、ユーザ のほうで、事業過程・管理過程の文脈のなかで定立されているのであって、われわれ システム・エンジニア が その 「意味」 とはちがう (べつの) 意味を勝手に導入できるはずもない。とすれば、ユーザ の言語を変形しないで、論理法則を使って形式的構成を (できるかぎりに) 機械的に与えればいいということになります。そして、その形式的構成が、ロジック の観点で矛盾していないことや環境変化に適用できているかどうかを調べればいいということになるでしょう。その技術が モデル 化の技術であって、システム・エンジニア が モデル の技術を熟知していることが 「制作の方法論について完全に通暁している」 ということです。
モデル の技術は、1915年以後、数学基礎論のなかで整えられてきたので、数学基礎論 (および、言語哲学) を学習すれば習得できる技術ですが、モデル 化の仕事のなかで難しい点は、三島氏が第三として述べている 「それを書く上の精神的肉体的諸条件について十分な推測のもとに立つ」 という点です。この点は、単純に言えば、「自己管理ができる」 ということでしょうね。すなわち、モデル を作るあいだにおいて、いっとき、頗 (すこぶ) る集中したかと思えば、あるときには、集中できないで散漫になってしまう、というふうに 仕事の ムラ が起こることを避けなければならない。
三島氏は、かれの ほかの エッセー のなかで、「仮面の告白」 を執筆したときに、後半が前半に比べて粗くなった理由として、精神的肉体的諸条件について十分な推測ができなかったことを告白しています。そして、かれは、「小説家の休暇」 のなかで スランプ を招来しないための手だてを考えていますし、そういう スランプ が 「迷信」 にすぎないことを指弾しています。私は いったん興に乗ると寝食を忘れて熱中するほうで、そういう やりかた をしたあとでは、寝不足に陥って思考力が落ちたり 生活の リズム を崩したりして、全体的に観れば、仕事の質が かえって低下しているのではないかと疑問を抱くことが多い、、、あるいは、質が平均して たとえ低下していないとしても、質のなかに部分的な ムラ が起こっていることは確かでしょうね。そして、それは、プロフェッショナル な仕事の できぐあい とは言えないでしょうね。私自身の大いなる反省を込めて本 エッセー を認 (したた) めた次第です。
(2009年 5月 8日)