私は、数学基礎論の モデル を学習しないうちから モデル を実地に作っていたので、拙著を顧 (かえり) みて、今の私なら そんなことを書きはしないと思う点が多いし、説明のなかで 明らかな誤謬も いくつか犯しています [ 拙著 「黒本 (T字形 ER データベース 設計技法)」 は、その標本と云っていいでしょうね ]。ただ、なんらかの新しい やりかた を探っている最中には、やりかたを試しながら整えてゆくしかない。それなら試行中の やりかた など公にしないで、それが完成するまで書かなければ良いと非難されるかもしれないけれど、やりかた が完成したとき、それは エンジニア にとっての終焉でしょうね。逆説的に響くかもしれないのですが、不確実だから書くのです。いまだ混沌とした・無形な思考に フォルム を与えるために書くしかないのです。
試作中の物を書きながら整えるのであれば、勿論、書物という形態をとらないで ウェブ (の ブログ) でやればいいのであって、実際、私は、仕掛かり中の状態ならば書物として出版する前に、かならず、私の ホームページ [ 「ベーシックス」 や 「データ 解析に関する FAQ」 ] で綴りながら検討してきました。そして、ホームページ で 2年くらい検討したことを書物として まとめてきました。
パソコン を使える時代──あるいは、1980年代では、ワープロ 専用機を使える時代──に生まれて私は幸いだった、と思っています。というのは、パソコン (あるいは、ワープロ 専用機) がなければ、言い換えれば 「手書き」 であれば、私は文を綴るのが嫌になっていたでしょうし、前述したように、文を綴りながら考えを整える性質の強い私は、文を綴らなければ考えを整えることができなかったでしょうから。
亀井勝一郎氏は、以下の文を遺しています (「思想の花びら」)。
ゲーテ の詩を全部読んだが、その中には実に多くの凡作がある。
しかも全体として壮大な美しい感じを与えられるのは何故だろうか。
彼の偉大さは、詩をつくるに当って、傑作をかこうとか、これは駄作
かもしれぬとか、そういう意識をもちあわせなかったことである。
刻々変化する自己の肉体と作品との間の必然性を、彼ほど正常な
眼で凝視した人はない。それは自然研究のおかげだと彼自身が
語っている。
私は、じぶんが文を綴りながら考えを整える性質であると言うのならば、ゲーテ の この態度を見習わなければならないでしょうね。ゲーテ の態度が、「作文の秘訣」 なのかもしれない。そして、「作文の テーマ」 について、亀井勝一郎氏は、以下の文を遺しています。
富士山ほどくりかえし描かれた山はない。あの三角形の単純な
かたちは、たちまち倦 (あ) きられて俗化してしまう。そのとき、
あらためて富士山の新しいすがたを発見するものこそ一流の画家
だ。たとえば北斎のような富士の眺めは、それ以前の誰も描かな
かった。平凡にみえる自然のなかに、千変万化の非凡なすがたを
発見するのが芸術である。
亀井氏の意見は、(芸術に限らず、) 科学でも言えることでしょうね。というのは、レーヴェンハイム・スコーレム の定理が それを証明しています。
(2009年 5月16日)