私は、「能楽」 が好きで、「能楽」 関係の書物を多く読んできました──私が どういう書物を読んできたかは、本 ホームページ 「読書案内」 を参照してください。それらの書物を読んで、そして、「能」 の実際の演舞を観て強く感じた点は、「能」 役者は、つねに、「肉体」 の制約を免れないという点でした。この点 (肉体の制約) は、「風姿花伝」 のなかで 「年来稽古 (それぞれの年齢に応じた稽古のありかた)」 として丁寧に記されています。
思考力が問われる システム・エンジニア (および プログラマ) の仕事では、「肉体 (あるいは、年齢)」 は、仕事の質に関係ないように思われがちですが、どうも、そうではないようです──ただし、システム・エンジニア (および プログラマ) の仕事は、残業・徹夜の多い仕事なので、肉体的に 「35歳限界」 説が まことしやかに流布しているようですが、その俗説は、私が今から述べようとしている 「肉体 (あるいは、年齢)」 とは ちがう見地 (viewpoint) です。ちなみに、私は 55歳で [ 今月、56歳になりますが ] システム・エンジニア の職に就いています。
さて、思考力を断然使う数学の世界で、後世に影響を与えた仕事というのは、大概、20歳代から 40歳代までのあいだでなされた仕事が多いようです。言い換えれば、数学では、40歳以前の若い頃に すぐれた仕事が多いということですね。思考力を目一杯使う数学において、そういう事実があるので、「歳をとれば、肉体が衰えても、思考力は益々盛んになる」 という意見を私は信用していない──もっとも、「歳をとれば、思考力は益々盛んになる」 という言いかたには、「経験のなかで体得した洞察力が物を視る際に思考を促す」 という意味をふくんでいるのかもしれないのですが、そういうふうな洞察力など 「効率 (考える際の省力化)」 の範疇で論じられるのであって、「概念操作」 の ちから とは関係がないと私は思っています。私自身、50歳代なかばの今のほうが 30歳代の頃に比べて思考力が すぐれているかと自問すれば、はなはだ疑問です [ 否、低下している、と謂うほうが正直でしょうね ]。
「風姿花伝」 では、24歳・25歳頃の稽古については以下のように記されています(参考)──当時の平均寿命を鑑みれば、現代なら、10才ほど上乗せして、35歳くらいのことと 「解釈」 してもいいかもしれない。
この年ごろは、一生涯の芸の基礎を固める最初の時期である。
であるから、このころの稽古こそ、演戯者の生涯を決めるもので
ある。(略) 能の演戯者として二つの利点が備わってくる。それ
は、若く美しい声と姿態である。(略)
その結果、「これは大変上手な役者が出てきた」 と人目に立つ
こともある。若い役者の新鮮な美しさが、名人といわれた人との
競演にも、その名人を凌 (しの) ぐほどの評判を得ることがあった
りすると、世間の人は実力以上に評価し、また演者自身も、自分
はかなりの上手だと思いはじめたりするものだ。しかしこのような
ことは、まったく本人のためにならない。ここで賞讃された芸は、
「まことの花」 (秀れた技術、豊かな見識を兼ね備えた人の芸に
よって咲かせる花) ではない。若々しい演者の声や姿態から発散
する表面的な美しさであり、それを観客が珍しいと感じる一時的
な魅力にすぎない。(略) このころに咲かせる花こそ、「初心」
の美しさと考えるべきなのに、本人は思いあがって能をきわめつく
したように考え、早くも能の正しいありかたからはずれた勝手な
理屈をこねまわし、名人気取りで異端な技をするのは、あさましい
ことだ。
んー、まるで、私の 35歳頃の状態を非難されているような、、、。でも、私の言い訳になるけれど、若くて活発発地な状態のときに、そして、システム・エンジニア (あるいは、プログラマ) として 「或る程度の」 技術を習得していれば、たいがいの エンジニア は、こういう罠に落ちるのではないかしら。
「風姿花伝」 では、さらに、以下の文が綴られています。
(略) それは若さによる一時期の、珍しさの花でしかないと自覚
して、より以上に、さまざまな曲に対する演戯を正しく身につけ、
先輩の名人たちに細部にわたって教えを乞い、ますます稽古を
積み重ねていくべきである。
これを 「芸道」 の配慮としてではなくて、科学の領域で仕事する エンジニア の身で謂うのであれば、「先輩の名人たち」 というのは 「学問」 と読み替えていいでしょう。しかし、悲しいかな、われわれ凡人が この点を実感する年齢は、40歳を超えた頃であって、たいがい、後手に回って後悔するようです──私が、この点を痛感した年齢は 45歳くらいのときで、30歳代に終えているべきことを 40歳代なかばになって懸命に retrieve しなければならなかったので、「肉体的に」 とても無理強いしたと後悔しています。「八十の手習い」 という ことわざ がありますが、「学問をするのに おそすぎるということはない」 という意味なのでしょう。でも、私には、この ことわざ の意味は、せいぜい、Better late than never くらいの意味にしか 「解釈」 できない──余技として嗜む程度の道楽であれば、それでいいでしょうが、プロフェッショナル な仕事の文脈では ジョーク にしかならないでしょう。したがって、「しかるべき時に (in the due course of time)、しかるべきことをおこなう」 というのが プロフェッショナル としての 「年来稽古」 でしょうね。さて、30歳代の システム・エンジニア にとって 「しかるべき花 (そのときどきの花)」 というのは どういう状態を謂うのかしら、、、。
(参考) 「世阿弥」 (日本の名著 10)、中央公論社、観世寿夫 訳。
(2009年 6月 1日)