「風姿花伝」 のなかの 「問答」 (実際の上演についての一問一答) で、世阿弥は以下の文を綴っています。
(参考 1)
年をとった演者がもはや外面的な美しさもなくなって、演戯も
古くさく、観客に飽きられてきた時期に、若い役者の持っている、
一時的な珍しさの魅力が勝つことがあるのであって、ほんとうに
眼のきく観客は見わけるであろう。(略)
能において、もっともたいせつなことは、舞台における花である
のに花がなくなってしまったことも覚 (さと) らずに、昔の名声
ばかりに頼っていることは、老齢の演者の大きな誤りである。(略)
舞台における花をいかにして咲かせるかということを知らない演者
を見るのは、花の咲いていないときの草木を集めて見ているよう
なもので面白くない。(略)
その花を、観客に感じられるものとするための工夫がなければ、
山里に咲いた花や、藪 (やぶ) の中の梅などが、見る人もなく
むだに咲いているようなものである。そうしたひとりよがりな
考えでは、美しさが表現されない。
「風姿花伝」 は芸能論を記した書物なので、そのなかで述べられている 「花」 は、一見、抽象的・象徴的な概念に感じられるかもしれないけれど──確かに、そういう 「花」 を定義して指示することはできないのだけれど──、確実に存在する (あるいは、感知される) 物だと思っていいでしょうね。たとえば、現代の用法で示せば、「彼女は ロンドン・バレー の花だ」 「同窓会では青春時代の話に花が咲いた」 「もう一花咲かせたい」 「彼女は集まりに花を添えた」 という使いかたの 「花」 でしょうね。それらの文を英訳すれば、以下のとおり。(参考 2)
She is a star of the London Ballet troupe.
At the class reunion, we had a really good talk about our younger days.
I wish I could be successful one more time.
She [ her presence ] added to the gaiety of the party.
それらの文で示される 「花」 を一言で言い切った例を示せば、「山口百恵には 『花』 があった」 という使いかたです。
「花」 について、どうして こういうふうな始めかたをしたかと云えば、「風姿花伝」 という書名を聞けば、「古い」 書物だし、「能楽」 という限られた範囲の芸能に関する書物なので、現代の生活には関わりがないし、システム・エンジニア の仕事にも関わりがないと思われて、本 エッセー を読み飛ばされる危惧を感じたからです。ちなみに、「風姿花伝」 は、英語に翻訳しやすいそうです。(参考 3)
さて、本題に戻って、引用した世阿弥の文について意見を述べてみます。意見と云っても、それらの文を 「解説」 するつもりはないのであって、それらの文で述べられていることが私の仕事のなかで どのようにして 「適用」 できるのか ということを思いめぐらすくらいです。私は これらの文を読んだときに直ぐに セミナー 講師としての振るまいを想像しました。セミナー 講師として、同じ テーマ をくり返してしゃべるときに──ちなみに、私は、25年間、セミナー 講師を務めてきましたが──、「古くさく、観客に飽きられて」 くるのは必至でしょうね。
同じ テーマ をくり返してしゃべりながらも、そういう事態に陥らないようにするためには、当然ながら工夫しなければならないのですが、その工夫が単に 「『面白可笑しい』 崩しかた」 であれば、いっときは ウケ ても長続きはしないでしょう。「正調」 は堅持されなければならない。しかも、「正調」 を堅持しながら、つねに、「珍しくて・興味をそそる」 セミナー でなければならない。この点が セミナー 講師を継続して務めるときの難点です。
同じ テーマ を くり返して しゃべっていて、しかも、歳をとれば、こまかな技術を語るのを抑制して基本的な概念体系を語るほうに比重を移しますが、聞き手は システム・エンジニア なので、概念の説明などには興味を示さないでしょうね。とすれば、ここで工夫すべき点は、それぞれの概念そのもの-の性質をしゃべるのではなくて、それぞれの概念のあいだに存在する [ あるいは、構成できる ] 関係を語る、ということです。つまり、「それぞれの概念のあいだの 『からくり (仕組み)』」 を明らめるということです。「概念のあいだの 『からくり』」 をしゃべるとなれば、テーマ を熟知していなければならないでしょうね。言い換えれば、その テーマ に関して 2年や 3年くらいの学習では語れないということです。この点こそ、「歳とった」 講師の面目 (めんぼく) たる点でしょう。「歳とった」 という意味は、その テーマ を探求し続けてきた──すなわち、真摯に検討し続けた──という意味であって、ただ単に テーマ を ときどき くり返してしゃべるということではないのは勿論のこと。
世阿弥は、「ときどきの初心を忘れるべからず」 という文を 「花鏡」 で綴っていますが、うらがえして言えば、つねに工夫せよということであって、そのときどきに 「花」 を咲せなさいということでしょうね。
(参考 1) 「世阿弥」 (日本の名著 10)、中央公論社、観世寿夫 訳。
(参考 2) 以下の和英辞典を参考にしました。
スーパー・アンカー 和英辞典、プログレッシブ 和英中辞典。
(参考 3) 私が読んだ 「風姿花伝」 の現代訳は、(参考 1) で示した書物です。
その書物の最初には、以下の 2つの 「解説」 が収められています。
変身の美学──世阿弥の芸術論── (山崎正和)
演戯者からみた世阿弥の習道論 (観世寿夫)
山崎正和氏の 「解説」 のなかで、世阿弥が示した概念 (見風、風体など) は
興味深いことに英語に翻訳したほうが日本語の現代訳に比べて理解しやすい
ことを述べています。
(2009年 7月16日)