「風姿花伝」 のなかの 「問答」 (実際の上演についての一問一答) で、世阿弥は以下の文を綴っています。
(参考)
なんといっても、稽古を重ねてゆくうちに、その稽古や年齢に
応じて芸格がそなわってくるのが、あたりまえのことである。
また生まれつき持っている芸の格調というのは、あらゆる面で
品格の高い、キッチリ とした強さをふまえた、長 (たけ) と
呼ばれる美しさである。ことわっておくが、貫禄といった意味
で一般に用いられている嵩 (かさ) とは別のものである。
多くの人びとが、長と嵩とを混同して考えているが、嵩という
のは、見た目に堂々として量感にあふれた様子をいうので
ある。また、嵩というのは、あらゆるものにわたって芸の幅が
広いことをいうのであって、位 (芸の格調) や長という感覚
的なものとは別の要素である。
たとえば、生まれつき幽玄と呼ばれる華やかな美を持った
役者がある。これは天性そなわった芸術的な才能であって、
位の一種である。しかしまた、すこしも幽玄なところのない
演者でも、キッチリ と芯が強く品格の高い美を表現する演者
もある。これは幽玄とは別の長というもので、やはり芸術的
な才能を ふまえた位である。
また、初心の演戯者が考えねばならないことがある。稽古
の対象として、以上のような位を、絶対にまねようとしては
いけない。位というような感覚的な面をまねようとすると、
その対象であるところの位には、いよいよ遠ざかり、しかも
過去に稽古して身についたものまで、失う結果になる。
これらの文で世阿弥は 「芸の才能」 について論じています。私が読んだ 「風姿花伝」 は観世寿夫氏の訳で、「世阿弥」 (日本の名著 10、中央公論社) に収録されています。そして、観世寿夫氏は 「演戯者からみた世阿弥の習道論」 と題した解説文を記して、その解説文のなかで、上に引用した 「長」 「幽玄」 という概念を 「素質の問題」 という見出しのなかで説き明かしていらっしゃいます。観世氏は、世阿弥が 「生得の下地」 を重視していることを述べていらっしゃいます──「生得の下地」 というのは 「生まれながらの素質」 と解釈していいでしょう。
「能楽」 が肉体を使った演劇であるかぎり、「生得の下地」 のなかでも、容姿や声質が多大に影響することは シロート の私にも──勿論、私は 「能楽」 の舞台を実際に観ている愛好者であるという前提で謂っているのですが──理解できます。容姿に関する印象──すなわち、見た目で 「存在感がある」 という感覚──が 「嵩 (かさ)」 なのでしょう。いっぽう、「幽玄」 というのは、「優美さ」 のことで、たぶん、容姿・声質が醸し出すこともあれば、演戯の動作である カマエ・ハコビ では稽古を通して次第に体得することもあるのでしょうね。ただ、「幽玄」 は単に 「上品」 ということではなくて、「美」 を伝えるための 「強さ」 がなければならないのでしょうね。そして、その 「強さ」 を 「長 (たけ)」 と謂うのでしょう。
さて、システム・エンジニア にとって、世阿弥の謂う 「嵩」 「長」 という概念は、たぶん、ふつうの仕事では──すなわち、システム を設計する仕事では──関係のない [ 要請されない ] 性質でしょう。ただ、セミナー 講師として壇上に立つときには、「嵩」 「長」 は評価事項になるでしょうね。
「嵩 (かさ)」 は、世阿弥によれば、「堂々として量感にあふれた様子」 ですが、現代語で言えば 「存在感」 と解釈していいでしょう。したがって、いわゆる 「押し出しのいい (すなわち、貫禄)」 という意味です。ただ、この意味は、かならずしも、背丈が高くて ハンサム で見栄えがいい、という状態ではない、と思います。私が大学生だった頃、或る有名人が大学に講演に来て、私は講演を聴きにいったのですが、壇上に向かって歩いている かれは背丈が小さくて見た目では どちらかと言えば 弱々しくて見劣りのする風貌でした。ところが、かれが壇上に立って話しはじめたとき、かれは一変して 「堂々として量感にあふれて、大きく見えました」──これが 「存在感」 ということでしょうね。かれは じぶんの専門領域のことを話したのですが、われわれ聴衆のほとんどすべては大学生であって、かれの専門領域での知識を持っていなかったので、かれは われわれ シロート にも わかりやすいように語ってくれました。そして、われわれ聴衆は講演の最初から最後まで かれの話に魅せられていました。その講演から 35年たった今になっても、私は、かれが壇上に立って話しはじめたときの強烈な印象 (嵩、存在感) を生々しく覚えています。
かれの講演のなかで時々余談として話された喩えのなかには、聴衆の笑いを取るためなのか 「俗に流れて」 羽目を外した [ 品位に欠ける ] 話があって苦笑しましたが、講演全体は キッチリと芯の強い運びでした──これが 「長 (たけ)」 ということなのかもしれない。「長」 というのは、たぶん、テーマ に関する材料と、それを的確に調味する技術と、講演の運びかた (構成法) を熟知した状態 [ 威風堂々たる状態 ] かもしれない。「一芸に長じた」 状態 (巧みな状態)、あるいは (技術を駆使した) 「確実な・すっきりした」 状態と謂っていいのかもしれない。したがって、「長」 は 「幽玄」 とは違う芸風だけれど、「幽玄」 を構成するための ひとつの品性でしょうね。
「幽玄」 というのは感覚的・印象的な芸風であって、しかも、天才のみが実現できる芸風であって、われわれには縁のない境地でしょうが、「嵩」 「長」 は、技術上の習熟が重視されるので、われわれでも プレゼンテーション で ひょっとしたら体得できる品性かもしれない。
ただし、プレゼンテーション において 「嵩」 「長」 などという仰々しいことを意識しなければならないと私は述べるつもりはないのであって、私が世阿弥の文のなかで重視したかった点は、「長」 の土壌となる稽古 (「技術」 の習熟) ということです。技術の確実な習熟を疎かにして、他のひとの上手な プレゼンテーション の しかた を真似しても──あるいは、そういう類の ミーハー 本を読んでも──道化にすぎない、ということを自戒にしたいのです。
(参考) 「世阿弥」 (日本の名著 10)、中央公論社、観世寿夫 訳。
(2009年 8月 1日)