「風姿花伝」 では、その書名に記されているように、「花」 が一番の キーワード になっています。「風姿花伝」 のなかの 「問答」 (実際の上演についての一問一答) の終わりのほうで、「理解しがたいのも そのことである。この 『花』 とは、どういうもので、どのようにして把握したらよいのだろうか。」 という問いに対して、世阿弥は以下の文を綴っています。
(参考)
ただ、むやみに理屈っぽく考えないで、実践のうえで把握すべき
である。
(略) それで、花とは何かということを知ろうと思うならば、まず、
美しい花を咲かせる種を知るべきだ。芸術における花という<のは、
心の働きによって咲くものであり、種は、あらゆる面にわたっての
技術というべきである。
世阿弥は、「花」 を咲かせる種として 「技術」 を重視しています。「能楽」 は、肉体を使った演舞です。世阿弥の流派では、「幽玄」 を実現するために、七歳で稽古を始めてから、それぞれの年齢に応じた稽古のありかたを──その ありかた を世阿弥は、「花鏡」 のなかで 「初心忘れるべからず、ときどきの初心忘れるべからず」 と記していますが──具体的に記述しています。われわれ シロート が 「風姿花伝」 を読めば、なにかしら 「深淵な思想」 が綴られていて、高尚な・概念的な書物のように思いがちですが、世阿弥は父 観阿弥の演舞を 「花」 に喩えて書きとどめて、そして、父 観阿弥の 「花」 を手本にして生涯にわたって稽古を積んで 「技術」 を研鑽し続けました──世阿弥は、自らの稽古のなかで気づいたことを (「風姿花伝」 に対する解説書の役割を担う) 「花鏡」 として記しました。世阿弥は、「花」 を抽象的に語らなかった。かれは、「花」 を咲かせる種として、つねに、最高の 「技術」 を体得するように意識していました。かれは、「位 (幽玄の風姿)」 を真似るなと注意しています。
「風姿花伝」 が示した到達点は 「花」 ですが、世阿弥が全篇を通して訴えている点は、「『手本』 を真似て、技術を研鑽する」 という点です。この点は、システム・エンジニア においても言えることでしょうね。エンジニア が エンジニア たる所以は、「技術」 を持って使うことができるという以外にないでしょう。そういうことを謂えば、「なにを今更当然なことを」 と せせら笑われるかもしれないのですが、では、「業務分析」 と称している仕事をしている システム・エンジニア たちが、はたして、「技術」 に値する物を持っているのかしら──「技術」 を無視して 「経験」 が幅をきかせているのではないかしら。
世阿弥は、「一問一答」 を以下の文で終えています。
これを書くことによって、世間から非難をあびることも顧りみず、
能という芸術の衰退することを心配して書き残したものである。
世阿弥の天才をもってして、こういう文を綴らざるを得なかった胸中には、「悲哀・憤怒」 が充ちていたのかもしれない、、、。
(参考) 「世阿弥」 (日本の名著 10)、中央公論社、観世寿夫 訳。
(2009年 8月16日)