「風姿花伝」 のなかの 「奥義」 (芸能者の生きかた) で、世阿弥は以下の文を綴っています。
(参考)
勝れた技術を身につけた芯の強い、格調の高い演者の能が、文化
的で しかも鑑賞眼のある人々に認められるというのは、芸と観客が
一致している場合であって問題はない。ところが、およそ文化的な
生活とは縁遠い人たちや、都会から離れた田舎の庶民の目には、
こうした格調の高い芸は理解することはむずかしい。こうした場合
は どう対処すべきだろうか。この能という芸術は、その時代の中
に しっかり足をふまえ、一般大衆の支持によって一座が形成され
ているので、多くの人々に喜びをあたえることが演戯者としても
喜びであり、また経済的な面の基盤でもある。それゆえに、高踏的
な考え方にとらわれて、あまりに一般の観客がついて行けないよう
な舞台ばかりを見せていたのでは、すべての人々の満足を得ること
は不可能である。(略)
演者としての実力はあっても、一座を繁栄させるための、演出家的
な創意工夫がなくては駄目なのである。(略)
こうした配慮や研究は、あくまで、能という芸術そのものを目的と
しなければならない。(略) 遂に世俗的な栄光や、経済的な増進
を目的とした努力では、能はたちまちに堕落してしまうだろう。(略)
これらの文を材料にして、「芸術か、通俗か」 とか 「芸術家か、職人か」 というような 「ありきたりの」 の諍 (いさか) い──「芸術」 あるいは 「通俗」 という いずれかの立場を選ぶなどいう単純な排他的 「選言」 命題──を ここで概括するつもりは私には更々ないのであって、それら (「芸術」 と 「通俗」) を 「連言」 命題として併存することが難しい原因を テーマ にしたいのです。なお、「芸術」 と 「通俗」 を、われわれ システム・エンジニア の仕事で謂えば、「理論」 と 「普及」 というふうに翻訳してもいいでしょう。
私は「高踏的であって、商いが下手だ」 というふうに非難されることが多いのですが、そもそも、事業を拡大しようという狙いがない人物に対して、そういう非難は的外れでしょう (笑)──私は、商いが下手な訳じゃない、商いに興味がないというだけのことです。私にとって事業というのは、あくまでも、じぶんの作った モデル を整えるために研究を続けなければならないので、その研究を続けるために生活費を稼ぐ手段であって、それ以上でも それ以下でもない。ちなみに、私は以前勤めていた会社で DBA をやっていましたが、私が係わった データベース を私自身が多く セールス したので、私の上司 (社長) は私を セールスマン にしようとしたくらいなので、私は セールス が下手な訳じゃない。ただ、私は研究のほうに エネルギー を注いでいるというだけのこと。そして、セールス という行為が非常に難しい仕事であることも私は承知しています。
モデル を学習するときに、初級の人たちにとって 「閾 (しきい) が高い」 というふうに非難されることがありますが、これも訳のわからない言いぐさだと思う。では、あなたが いま やっている仕事を私が 2日間ほど説明してもらったら、私は あなたの代わりに その仕事を直ぐに できますか──できないでしょう。モデルの 「技術」 そのものは単純なので、たぶん、2日間ほど説明してもらえば、文法を覚えて使うことができますが、直ぐに使うことができるからと謂って、モデル を使って直ぐに 「事業を 『正確に』 記述できる」 訳ではない。モデル を モデル として的確に使うためには、「技術」 の文法を丸暗記しただけではできないのであって、モデル を モデル たらしめている ロジック を学習しなければならないのは当然のことでしょう。それを 「閾が高い」 と謂われても的外れでしょうし、ほかの仕事においても、「プログラマ の仕事は閾が高い」 と謂えるし、もし、営業の仕事は だれでも直ぐにできるので 「閾が低い」 とでも思っているのなら、いちど営業の仕事をやってみればいい [ 営業の仕事の難しさを実感するでしょう ]。
世阿弥は、はたして、かれの 「能」 が普及して他の すべての流派の 「能」 を蹴散らして、唯一無二の 「能」 になることを狙っていたかしら、、、そうではないでしょう。「能楽」 の一座として どのくらいの演戯者の数 (そして、演戯者のほかにも、舞台を準備する人たちなどをふくめた人数) が適正なのか を私は詳らかにできないけれど、世阿弥が 「(一座の) 繁栄」 と謂うときに、数百人という数を考えてはいなかったはずです。もし、数百人もいれば、(入場者数に比べて──言い換えれば、「収入」 に比べて──、人件費が過多になってしまい、) 一座は破綻するでしょう。「繁栄」 という ことば を聞いて直ぐに 「普及」 を想像するのは短見すぎる。
いくつもの類似品が存在する マーケット では──たとえば、家電品、自家用車とか パソコン とか──、たぶん、占有率が 30%もあれば トップ (リーダー) の ポジション に立てるでしょう。では、コンピュータ・システム を作るときに、分析段階・設計段階において モデル が どのくらい使われているのか と問えば、10%にも充たないのではないかしら──もし、モデル を正確な意味で言うのであれば [ すなわち、単なる diagramming など モデル にふくまないとすれば ]、数%にも充たないでしょうね。数%のなかで、どの モデル が どのくらいの占有率をもっているかを問うても 「ドングリ の背比べ」 でしかないでしょう。モデル を作っている私から観れば、分析段階・設計段階において モデル の使用率が 30%を超えなければ、モデル の 「普及」 にはならないと思っています。
では、どうして モデル が 「普及」 しないのか と問えば、「(モデル の学習は) 閾が高い」 という非難にあるのではなくて──そういう非難は、モデル を使いたくないがための言い訳でしかないのであって──、システム作りの考えかた [ 正確には、「業務分析」 の考えかた ] そのもの に原因があると私は推測しています。では、「業務分析」 の やりかた の どこが間違っているのか、という点に関しては、「反 コンピュータ 的断章」 のなかで、かつて いくどか説明してきたので、ここでは再録することを止めますが、30年以上にわたって同じやりかたを続けてきて、「ききめ」 がないということがわかっているのなら──あるいは、「ききめ」 がないと証明できないけれど、いっぽうで、「ききめ」 があったとも証明できないのなら──、他の やりかた を考えるのが良識ではないかしら。
(参考) 「世阿弥」 (日本の名著 10)、中央公論社、観世寿夫 訳。
(2009年 8月23日)