「風姿花伝」 のなかの 「別紙 口伝」 (舞台表現の本質論) で、世阿弥は以下の文を綴っています。
(参考)
しかし、また時の流れということも、十分に警戒する必要がある。
去年ごろに、たいへん調子のよいときがあったとしたならば、今年
はそうした調子で美しい花を舞台に咲かせることはないと知るべき
なのだ。(略) どんな演じかたをしても能の出来がよいときもあれば、
悪い出来のときもかならずあるものだ。(略)
しょせん舞台というものは、演戯者が前もって考えていたとおりに
は運ばないものである。そうした自分の意識だけでは、どうにもなら
ない問題を背負って舞台に立つのだから、この因果の花 (花の因果
関係) ということを、よくよく考えて対処すべきで、これを おろそか
に思ってはいけない。(略)
因果の道理によって、よいときと悪いときがあると前条で述べたが、
よくよく考えれば、つまりそれは、珍しいか珍しくないか、いわば
人の心を捉えるか否かの二つでしかない。同一の演者の同じ能を、
昨日今日とつづけて見た場合に、たとえ上手な演者の舞台であって
も、昨日はたいへんに面白いと感じたものが、今日は感銘をうけない
ときがある。これは、昨日面白く感じられた印象がまだ心に残って
いるので、見る以前に先入観がつくり上げられていて、今日は新たな
感銘をうけないのだ。つまり、珍しさがないために悪い出来に見える
のである。(略)
以上のごとく、能をきわめつくしてみれば、花という特殊なものが、
別個に存在するわけではなく、能の奥義に達し、あらゆる場合に
珍しさを生み出す道理を自覚し身につけることのほかに花というもの
はありえないのである。仏教の教えに 「悟りを得た見地に立てば、
善も悪も別のものではなく、よこしまなことも正しいことも、一つの
心から出るもので、実は同一である」 (善悪不二、邪正一如) と
ある。もともと、善いとか悪いとかいう批判は、何を基準にして
決定すべきなのだろうか。ただ、その時々の要求に応じられるもの
を善しとし、応じられないものを悪いと考えるべきだ。(略) 常に
その時代の要求に応じられるものが、すなわち花であると認識
すべきである。
この 「別紙 口伝」 は、応永 25年 6月 1日付けで、「元次」 に秘伝されて──「元次」 とは、世阿弥の子 「元雅」 の初名と推測されていますが、別人かもしれないとのこと──、「風姿花伝」 の最後に収録されています。そして、上に引用した文は、「別紙 口伝」 のなかで、最後のほうで綴られている文です。
さて、世阿弥は、「能をきわめつくしてみれば、花という特殊なものが、別個に存在するわけではなく、能の奥義に達し、あらゆる場合に珍しさを生み出す道理を自覚し身につけることのほかに花というものはありえないのである」 と述べていて、ただし、「しょせん舞台というものは、演戯者が前もって考えていたとおりには運ばないものである。そうした自分の意識だけでは、どうにもならない問題を背負って舞台に立つのだから」、能の出来の良いときもあれば出来の悪いときもある (その時々の要求に応じられることもあれば、そうでないこともある) と述べています。「能をきわめつくして」 という前提を外しても、世阿弥の述べたことは、なんらかの わざ (テクニック) を追究する途上で起こりえることでしょうね。私は、「モデル の テクニック を窮め尽くした」 などという自信 (己惚れ) を更々持っていなのですが、世阿弥の謂うことを仕事 (コンサルタント、エンジニア および セミナー講師) で実感してきました。世阿弥は、「別紙 口伝」 の初めのほうで、「花 (珍しさ)」 を生み出す やりかた を以下のように具体的に綴っています。
まず同じ曲を再演するのは三年から五年の間に一度という程度に
期間をあけて、新しく演出をしなおして、珍しさを感じさせるよう
工夫をすべきだ。
世阿弥の頃に、曲が どれくらい存在していたのかを私は いま詳らかにできないのですが──「書斎」 のほうに出向いて調べればいいのですが、めんどくさいので止めておきますが──、世阿弥が謂うには 「十分な表現の種類を体得した演者は、演戯の幅が広範囲にわたっているから、いつでも上演できる曲目を順に演じても、そのひとまわりの期間は相当に長い年月を要するので、観客は常に珍しさを感じるだろう」 とのこと。この点は、エンジニアリング で謂えば、(世阿弥の謂うような 「いくつもの曲目」 ではなくて、) ひとつの プロダクト (あるいは、テクニック) の バージョンアップ のことかもしれない。つまり、バージョンアップ として minor changes であっても、 minor changes を積み重ねて、(「珍しさ」 というのは全体感なので、) 「珍しさ」 を出せないことはないでしょうね。
私は、いままで、二年か三年の間隔で著作を執筆してきました。著作は九冊です。九冊のなかで一冊を除けば──言い換えれば、八冊は──、ひとつの テーマ (データ 分析法) を様々な観点から検討してきました。最初の頃 (1980年代・1990年代) には、それぞれの時代環境に対応するために、データ 分析法を CASE (Computer-Aided Software Engineering)・IRM (Information Resource Management)・C/S (Client/Server)・RAD (Rapid Application Development) の観点という順で検討してきて、2000年以後は、原論 (モデル) の観点で検討を続けています。そして、いま、直面している追究点は、「順序」 という概念です。
「順序」 は、数学上、「全順序」 と 「半順序」 があり、「全順序」 は 「半順序」 にふくまれるとされています。すなわち、なんらかの項に対して構成を与えるときに、もし、「全順序」 が成立するのであれば、「全順序」 の関数を使えばいいし、もし、そうでないならば、「半順序」 を使う、と。私が 「順序」 において争点にしたいのは、「全順序」 と 「半順序」 のあいだで、なんらかの ファンクター を考えられるのではないか、という点です──というか、もっと正確に謂えば、TM (T字形 ER手法の改良版) では、その ファンクター を導入して使っているのですが [ 「行為者が出来事に関与する (侵入する、ingression)」 という規則を導入しているのですが ]、それは数学的 ソリューション ではなくて、哲学的 (形而上学的) ソリューション になっているので、この点を詳細に検討してみたいのです。今年 2月に上梓した著作が九冊目でしたが、その著作のなかで、この 「『順序』 に関する検討点」 を強く意識しました。さて、二年後あるいは三年後に、言い換えれば、2011年あるいは 2012年に、はたして、その検討点に対する ソリューション を私は報告することができるかどうか、、、たぶん、できないかもしれない。できないとしても、TM が 「珍しさ」 を感じさせるような工夫点になるので、追究してみたいと思っています。ただし、世阿弥の以下の ことば を肝に銘じて。
しょせん舞台というものは、演戯者が前もって考えていたとおりに
は運ばないものである。そうした自分の意識だけでは、どうにもなら
ない問題を背負って舞台に立つのだから、この因果の花 (花の因果
関係) ということを、よくよく考えて対処すべきで、これを おろそか
に思ってはいけない。
(参考) 「世阿弥」 (日本の名著 10)、中央公論社、観世寿夫 訳。
(2009年 9月 1日)