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Every man as his business lies.

 

 「花鏡」 のなかの 「奥の段」 (結語として述べる奥義) で、世阿弥は以下の文を綴っています。(参考)

    能を身をもって知ることがすべてである。

    能を知りたいと思えば、まず専門外のいっさい関心をなげうち、
    能ひと筋に没頭して休みなく徹底的に習いつくすべきであって、
    そのようにして年功を重ねた結果、(略)

    能は若年から老年にいたるまでひと筋に稽古で貫くべきだ、と
    いうことに尽きる。

    過去の各時期にあった表現というのは、それぞれの段階の初心
    の芸にほかならない。それを現在の芸風のなかにひとつにして
    持つとは、すなわちそれぞれの時期の初心の芸を忘れないこと
    ではなかろうか。

    生涯この初心の芸を忘れずにすごせば、人生の退場の舞も上達
    一途のうちに舞うことができ、最後まで能には退歩ということが
    ないはずである。したがって、最後まで能の行きどまりを見せる
    ことなく生涯を終わることを、ここにわが観世座流の奥義とし、
    (略)

 「風姿花伝」 は、(世阿弥の亡父) 観阿弥の演じた芸能の諸特徴を世阿弥が 「花」 の比喩を使って書きとめた教訓の記録であるのに対して、「花鏡」 は、世阿弥が 40歳くらいから老年に至るまでの芸道上で発見したことを じぶんの芸道の形見として遺した書です。「風姿花伝」 を読んで 「花鏡」 を読んでいないひとは、ぜひとも、「花鏡」 を読んでみてください。「花鏡」 は、「風姿花伝」 の 「注釈」 的性質を帯びていて、「技術」 を習得するうえでの注意点を丁寧に記しています。「反 コンピュータ 的断章」 では、いままで、「風姿花伝」 から いくつかの文を引用して、それらの文で語られていることがらを私自身の仕事のなかに活かすようにしてきましたが、「花鏡」 に関しては、ここに引用した文のほかに引用を 一切 省きますので、「反 コンピュータ 的断章」 を読んでいただいた人たちのなかで世阿弥に興味を抱かれた人たちは、「花鏡」 を みずから 読んでみてください。

 さて、上に引用した文のなかで、以下の文は、およそ、プロフェッショナル な職にある人の心得えとして究極に尽きるでしょう。

    能を身をもって知ることがすべてである。

 「能」 という職を変数 x にしてしまえば──すなわち、「x を身をもって知ることがすべてである」 という文に一般化してしまえば──、プロフェッショナル な職の ありかた を撃ち抜いているのではないでしょうか。「身をもって」 (I'm part of it) という語が一切を集約していると思います。そして、「身をもって」 知るためには、「ひと筋に稽古で貫く」 (fully committed) ほかに やりかた はないでしょうね。世阿弥は参禅していたので、「禅」 から学んだ点を 「花鏡」 のなかに取り入れています。世阿弥の稽古には、「禅」 で云う 「只管 (しかん)」 に通じる気組みがあります。

 そして、「能」 が演芸であるかぎりにおいて、世阿弥は、つねに、「能」 を観る大衆を強く意識していました。芸を究めるために稽古を積んで、さらに、大衆に迎合しないで──すなわち、大衆に迎合して芸の質を貶めないようにして──大衆の嗜好 (それぞれの 「時代」 の taste) に応えることを、かれは つねに意識していました。プロフェッショナル な職に就いているかぎりにおいて、稽古 (言い換えれば、学習) を怠けないで継続することは、強い自覚さえあれば難しいことではないのですが、ひとつの 「技術」 を究めながら、いっぽうで、大衆の嗜好 (あるいは、「時代」 の taste) に応えるというのは非常に難しい。私は、「自戒」 の念を込めて、本 エッセー を綴りました。

 
(参考) 「世阿弥」 (日本の名著 10)、中央公論社、山崎正和 訳。

 
 (2009年 9月 8日)

 

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