「至花道」 のなかの 「無主風のこと」 (主体性を持ち得ていない芸風いついて) で、世阿弥は以下の文を綴っています。
(参考)
まず、基礎技術である舞と歌の稽古においても、師の教えるまま
に写し取っている段階までは、まだ無主風といって、主体性を
持ちえていない芸である。一応は師によく似ていて、相当な技術
を習得しているごとく見えるが、じつはまだ自己の芸になって
おらず、観客に感動をあたえるだけの芸力が不足していて、しかも
なかなか上達しない。
師の芸を忠実に写し、また上手の演者の舞台を観て、その長所を
取り入れて、それを体で覚えこむことによって、安定感があり、
しかも自在に能を創りあげられる達人になりえた者、これが、
すなわち芸における 「主 (ぬし)」 なのである。
こうして、生まれながらに持っている芸術的感覚に加えて、稽古
して得た自分の力量に応じた芸を、ただ知ったという段階に満足
せず、自分自身の芸として身につけた人、そして自己と役とが
一体となって演戯できる境地にいたった人、これがいわゆる
「有主風 (うしゆふう)」 を確立した演者といえるのである。
この文を読んでいたら、私は 「モデル の学習」 「モデル 作成の実践」 において自らの体験を思い起こしました。世阿弥が謂う 「師」 を、私の仕事の文脈では、「学問 (数学基礎論、言語哲学)」 と翻訳していいでしょうね。
「モデル の学習」 段階では、モデル の基礎技術を習得するために、数学基礎論・言語哲学の定説が教えるままに写し取っている 「無主風」 の状態です。一応は技術を習得しているごとく見えるけれど、じつは まだ 「腹に入っておらず」 現実的事態を扱う力 (ちから) が不足して、しかも なかなか上達しない状態です。この状態に私は、1998年から 2005年のあいだ いました。すなわち、拙著 「論考 (論理 データベース 論考)」 を執筆する準備段階から数えて、拙著 「赤本 (データベース 設計論)」 を脱稿するまでのあいだ、私は そういう状態にいた、ということです。そのあいだ、私は懸命に数学基礎論・言語哲学を学習して、TM を補強することに務めていました。
私が 「有主風」 の段階に入ったかな と実感したのは、拙著 「いざない (モデル への いざない)」 を 2008年12月に脱稿したときでした。この時点で、私は、TM を 「確実に掴んだ」 と実感しました。ここに至るまでの道のりは──拙著で謂えば、モデル (TM) らしき原型は最初の著作 「CASE ツール」 (1989年) で現れているので、「いざない」 までの年数を数えてみれば── 20年間を費やしたことになります。すごい長い道のりだったと思います [ 頭の悪い私が支払うべき対価だったと謂えば、それまでなのですが、、、]。そして、今、TM の中核になっている思想・技術を まとめてみれば、以下のように単純に まとめることができます。
(1) 全順序と半順序
(2) L-真と F-真 [ 無矛盾性と完全性 ]
(3)(セット の) 切断 [ 分割・細分 ]
これらの概念・技術は、数学基礎論・言語哲学では、極々 基礎的な概念・技術です。これらの概念・技術を (世阿弥が謂うように) 「ただ知った」 という状態になるには、数日も費やして学習すれば充分でしょうね。しかし、これらの概念・技術を現実的事態に適用して、安定感をもって自在に応用できるようになるには、3年とか それなりの年数を費やすことになります──私の場合、無矛盾性・完全性を実現した モデル 体系 (TM) そのものを作る仕事だったので、確立された モデル を適用する以上に、20年という長い年月を費やさなければならなかった次第です。
モデル を学習するひとも、モデル の文法を 「ただ知った」 という状態であれば 2日くらい学習すれば充分ですが、(世阿弥が謂うように) 「ただ知ったという段階に満足せず、自分自身の芸として身につけた」 「有主風」 な状態になるには──すなわち、プロフェッショナル な DA になるには── 10年 (あるいは、20年) 以上を費やすことになるでしょう。この点は、モデル に限らず、他の職でも云えることでしょうね。
世阿弥は 「無主風のこと」 を以下の文で終えています。
為 (す) ることが困難なのではない。
完全に為 (す) るということがむずかしいのだ。
(非為堅、能為堅也)
「ただ知った」 だけの状態で いっぱしに評を弄している輩には、「では、やってみてください (Show me)」 と応対すればいいでしょう。エンジニア の仕事では、実際に為された output を観れば、そのひとの 「実力」 を判断できます。みずからの力 (ちから) が そのまま現れるという意味で、私は エンジニア の仕事が好きです。
(参考) 「世阿弥」 (日本の名著 10)、中央公論社、観世寿夫 訳。
(2009年 9月23日)