「至花道」 のなかの 「闌けたる位のこと」 において、世阿弥は以下の文を綴っています。
(参考)
正統な修業の課程においては、否定してきた邪道な演戯 「非風
(ひふう)」 を、正統な演戯 「是風 (ぜふう)」 の中に少しばかり
交えて演ずる方法である。
もともと上手な演者の能というのは、正統な演戯の上に創られた
もの以外にはあるはずがない。したがって、常に善い面ばかり
であるために、その善い面も、新鮮な魅力がなくなって、観客の
目に新たな感動をあたえなくなる場合がある。
こうした特殊な演戯を、初心の者がただ面白い演じかたである
から模倣すべきだと考えて、その真似をすると、もともと正統
な演戯とはいえない演じかたであるものを、いまだ未熟な芸の
中に交えて見せることになるから、(略)
上手な演者はこうした演戯について、あらかじめ邪道と心得な
がら用いるのであるが、初心の人は、これを正統な演じかたと
誤解してまねするところに (略)
ちなみに、「闌 (た) けたる位」 というのは、「正統な学習をつくした後に、外形にとらわれず自由自在に演戯を おこなえる境地」 のことです。芸術においては、正統な演戯のなかに邪道な業 (わざ) を一寸交えたなら、「破調」 として意表をついた ハッとした面白さが出ることもあるようですが、その面白さは、当然ながら、正統な土壌において用いられるから起こるのであって、正統な ウラ 打ちのない邪道な業のみで構成された演戯が面白さを持続することはできないでしょうね。
さて、われわれ エンジニア の仕事でも、世阿弥の綴ったことが、ときたま、起こります──勿論、「正統な技術」 を前提にした上で邪道を用いる、ということです。たとえば、データ 設計では、「配列」 において、ときどき、そういう邪道を用いることがあります。具体例を示せば、或る出来事において 「開始日、終了日」 という二つの日付があったとして、構文論上、これらの日付は多値関数となるので、TM で云えば、MOR [ many-value OR ] として扱う──コッド 正規形で云えば、「『繰り返し項目』 の排除」) として扱う──のが正統です。
しかし、意味論上、これら二つの日付は、つねに 「対」 になると 「解釈」 して、R (開始日、終了日) というふうに 「配列」 として(すなわち、「横列」 に 一組として) 構成することがあります。勿論、この構成は邪道です。あるいは、邪道と謂わないまでも、保守性・拡張性に乏しい構成でしょうね。というのは、「配列」 として構成すれば、もし、「開始日」 のあとで、いったん休止して、そして、ふたたび再開して終了する、というような事態が起こったら、対応できない (あるいは、対応しにくい) でしょう。つまり、「開始日」 「終了日」 のほかに──それらの日付のあいだに──、「休止日 (suspend)」 「再開日 (resume)」 という日付を記録するようになったら、対応できない (対応しにくい)。
私は、勿論、正統的な やりかた── TM で云えば、MOR──を使いますが、もし、ユーザ の意識が、これらの日付は 「つねに、対 (一組、pair)」 であるというふうに強いのであれば、「ユーザ 責任 (at your own risk)」 において容認することがあります。だからといって、(開始日、終了日) という 「配列」 構成のみを観て、TM が邪道であると判断されては困ります (笑)。私は、世阿弥の謂う 「闌けたる位」 にいるとは、更々、思っていないのですが、私は、数学基礎論・言語哲学を学習してきて、モデル の正統な やりかた を知って それを実践してきました。TMD の 「事例」 を観て、もし、TMD のなかに (開始日、終了日) の 「配列」 があったとしても、それは それなりの理由があるのであって、「あ、禁じ手の 『配列』 が記述されている! TM は 『いかがわしい』 手法だなあ」 とは、くれぐれも即断しないでください (笑)。あるいは、「マサミ さんが 『配列』 を認めている」 と速断して真似をしないでください (苦笑)。
TM は 「文法 (「構成」 の生成規則)」 が はっきりしています──そして、その文法は、数学基礎論の技術 (正統な技術) に則 (のっと) っています。したがって、その文法から離脱して作図された構成は、邪道な構成です。
(参考) 「世阿弥」 (日本の名著 10)、中央公論社、観世寿夫 訳。
(2009年10月 1日)