「至花道」 の 「体・用のこと」 において、世阿弥は以下の文を綴っています。
(参考)
能において、演戯の本質的な構造 「体 (たい)」 と、その現象
的な現われ 「用 (ゆう)」 について知るべきである。体・用という
ことをたとえてみると、体を花とすれば、用は花の匂いのようなもの
である。また、体を月とすれば、用は月の光にあたる。ゆえに、体を
十分に体得すれば、その現象面である用も自然に、生じてくるはず
である。
まず、他の演者の舞台観察する時に、能の本質を把握している人
は、内面的直観 「心」 にのっとって理解するが、能は何かという
自分の考えを持っていない人は、肉眼に見える表面的なものだけ
を観るものである。内面的直観 「心」 で感ずるものは体であり、
肉眼によって捉えたものは用である。
したがって、未熟な人は現象面である用のみを観て模倣しようと
する。これは、用がもともと体から生ずるという理論を認識しない
ためで、用は本来模倣すべき性質のものではないという道理が
あるのだ。(略)
同じことを芭蕉は、以下のように謂っています。
古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよと、南山大師の
筆の道にも見えたり。
世阿弥は、「風姿花伝」 のなかで、「『位 (幽玄の風姿)』 を真似るな」 と注意しています──「至花道」 の ことば で謂えば、「『用』 を真似るな」 ということでしょうね。
「用」 は、観るひとに直截的に伝わってくるので、「評価しやすい」 し 「真似しやすい」 でしょう。まして、天才的な・強烈な個性が輻射 (ふくしゃ) する 「用」 であれば、観るほうは、その虜になって、天才的な・強烈な個性が 折々 見せる 「癖」──すなわち、「わざ」 とは 毛頭 関係のない しぐさ──まで真似るようになるかもしれない。私は、若い頃 (大学生・大学院生の頃)、或る天才的な人物に魅せられて、かれの しゃべりかた まで真似たことがありました──しかし、私の技術が、かれの 「体」 と同じ質を体得していなかったことは勿論のことです [ 私の真似は、ファン 感情 (あるいは、憧れ) で生じたにすぎなかった ]。
「反 文芸的断章」 のなかで、以前、「このひとを観よ」 という エッセー を綴りましたが、「このひとを観よ」 というのは、勿論、「用」 ではなくて 「体」 を観よ、ということです。
荻生徂徠は、以下のように謂っています。
万事、その道を論じるには、まず その道を行った人を論じる
のが早道です。
「その道を行った人を論じる」 には、そのひとの著作を すべて 読むほかはない。そのひとの著作を すべて 読むということは、「体」 を観る (凝視する) ということです。小林秀雄氏風に謂えば、「意匠」──すなわち、外観の工夫──を剥ぎ取って、「主調低音を聴く」 ということです。
澤木興道老師は、以下のように おっしゃいました。
ツクリモノ を一切ぶちこわして中味を現 ナマ でやるのが
禅者の生活でなければならぬ。
システム・エンジニア の作る アルゴリズム も、そういう性質でしょう。「エレガント な証明」 というのは、意匠を凝らしたという意味ではなくて、「単純で スッキリした」 という意味です。「エレガント」 というのは 「用」 でしょうが、その証明で使われた公理・証明法が 「体」 でしょうね──そして、そういう公理・証明法を用いた 「視点」 こそが 「体」 の本元 (ほんもと) でしょうね。この 「視点」 を捉えることが 「主調低音を聴く」 ということでしょう。私は、この点 (視点・公理・証明法を掴むこと) を ゲーデル 氏の 「不完全性定理」 を読んだときに身をもって実感しました。
「用」 は 「体」 から派生するのであって、「用」 が独立して存在しえないということを納得していれば、「用」 を真似ることはしないでしょうね。その点を、世阿弥は、以下のように謂っています。
似するは用、似たるは体
「似する (似せている)」 というのは うわべの 「用」 を真似ているにすぎないのであって、「似たる (似ている)」 状態ではない、ということ。稽古 (学ぶこと) は 「再現する」 ことであって、「再現」 は 「真似」 ですが、「真似」 が 「本物」 になるには、「体」 を真似るのほかはない、ということでしょうね。
(参考) 「世阿弥」 (日本の名著 10)、中央公論社、観世寿夫 訳。
(2009年10月16日)