世阿弥は 「遊楽習道風見」 において以下の文を綴っています。
(参考)
なぜなら舞と歌とはすべての芸能に共通な技術であって、能ばかり
に特有な技術ではない。すなわち芸能の普遍的な技術なのである。
この二大基礎を十分に習得してしまえば、おとなになるにつれて
演じうる役柄も数が揃ってくるものであって、(略)
「幼いくせに役柄の幅が広くて逸材だな」 と観客に思わせる舞台
効果も、おとなになれば役柄の多いのはあたりまえで、魅力として
残るわけがない。
したがってこれにつけても前に述べたように、年少者には舞と歌
との普遍的な技術ばかりを教え、この二大基礎が得意な芸になる
ようにしむけ、役柄に器用に扮することは覚えさせないで、演目の
幅は狭いままにしておくべきである。そうしておとなになるにつれて
ようやく三つの基本役柄 (老・女・軍) ができるようになるころ、
しだいに演目の数を増やして行けば、成長に相応した芸風もできて、
能の生命が長久になることは疑いの余地がない。舞と歌とは芸能
一般につうじる技術なのだから、また初心者にも熟練者にも、老若
童男のいずれにも共通する位置にある技術だといえる。これに
たいして役柄に扮することは能に特有の演戯形式なのだからこれ
を得意の芸としてはまりこんでしまうと、芸能一般の広い魅力に
いたることができない。
これらの文を読んで私は色々と考えさせられました──「基礎の習得が大切である」 とか 「じぶんの技術が、コンピュータ の領域において、どういう座標点にあるのか」 (あるいは、さらに、範囲を拡大して、「コンピュータ に関する技術を、どういう文脈のなかで考えるべきか」) とか 「モデル を作るための基礎技術は、どういう技術なのか」 などなど。そして、モデル の技術において、以上の文を適用してみれば、「ことば と ロジック」 ということに尽きるのではないか と私は思いました。「反文芸的断章」 2009年10月16日付けの エッセー で引用した小林秀雄氏の言を借りれば、「ことば の公共性」 と 「ロジック の公共性」 について意識をめぐらすのが モデル を作る前提ではないか、と。これを一言でいえば、「自然言語で綴られた文に対して形式的構造を与える」 ということです。おそらく、この点が、世阿弥の謂う 「芸能に共通な技術であって、能ばかりに特有な技術ではない」 基礎技術を モデル に適用したときに導き出される帰着点かもしれない──ただし、ここでは、自然言語が構成できる 「芸術性」 を極力に抑制して、その言語がもつ 「指示性」 のみを対象にする、というような前提 (限定) を置いています。
もし、そうだとすれば、われわれ システム・エンジニア は、ロジック を習得していなければならないでしょう──具体的に謂えば、数学基礎論で扱われている基礎技術を習得していなければならないでしょう。勿論、特定の コンピュータ 言語の シンタックス を知っているというような類の話ではないのであって──それは、応用技術にすぎないのであって──、ロジック に関する基礎技術を駆使できるということです。高校までの教育を終えていれば、ロジカル に考える ちから を 或る程度 身につけているはずですが、「無矛盾性」 を パーフェクト に実現した証明 (アルゴリズム) を構成するには、さらに、基礎技術を網羅的・体系的に学習しなければならないでしょう。
たとえば、仮言 「p → q」 が論理的否定・選言に翻訳できること [ すなわち、¬p ∨ q ] を知っていれば、そして、3値 ロジック の真理値表を知っていれば、3値のなかで null を扱うことに注意を払うでしょう──試しに、p のなかに null を代入してみてください。3 値 ロジック では、null の論理否定は、null になります。SQL の シンタックス を知っているなどという レベル の話ではなくて、それ以前の [ その前提の ] 話です。あるいは、null の多義を説明するときに使われる概念として、undefined と unknown がありますが、undefined が 「部分関数」 であることも ロジック では基礎知識です。あるいは、null は状態であって 「値」 でないということくらいは、「(健全な) 常識」 を働かせば直ぐに わかるでしょう。こういう基礎知識が すっぽりと抜けたまま、コンピュータ 言語の シンタックス のみで null を考えては、世阿弥の言を借りれば、「役柄に扮することは能に特有の演戯形式なのだからこれを得意の芸としてはまりこんでしまうと、芸能一般の広い魅力にいたることができない」──勿論、「芸能一般の広い魅力にいたることができない」 というのは、われわれの文脈では、知識が足らないということです [ したがって、ちゃんとした アルゴリズム を作れないということです ]。
あるいは、ロジック の基礎を習得しないで、初級者が いきなり 「アプリケーション」──たとえば、生産管理の システム 構成とか会計の システム 構成とか──を学習しても、それらの システム のなかで使われている アルゴリズム が妥当かどうか判断できないでしょう──私は、「アプリケーション」 の パターン と称した アルゴリズム を いくつか観ましたが、ロジック では 「禁じ手」 とされている [ 言い換えれば、「矛盾」 を起こしそうな ] 構成が いくつか組まれているのを眼にしました (苦笑)。初級者は、そういう パターン を学習する前に、ロジック を学習すべきでしょう。なぜなら、われわれ システム・エンジニア は、コンピュータ のなかに無矛盾な構成を作らなければならないのだから。
業務知識を持っていれば、ユーザ の業務を 「分析できる」 というのは単なる思いこみにすぎない。日本語が読み書きできれば、「論理的に」 考えることができるというのは夢想にすぎないことぐらい、「(健全な) 常識」 を働かせれば直ぐに わかるでしょう。そして、「ロジカル・シンキング」 などと称した ミーハー 本を読まないで──私は、そういう類の書物を若い頃に多数読んで、さらに、数学基礎論を学習して、「ロジカル・シンキング」 と称する書物が ロジック の いちぶ しか扱っていないことを知ったので──、私の苦い体験を振り返って、初級者に対して、「数学基礎論を学習する」 ことを助言します。「学問に則る」 というのは、地味なようで──遠回りのように見えますが──実は、いちばんに efficient で effective です。efficient というのは、「doing things without waste」 ということです。「学問に王道なし」 という単純なことに気づくには、ひとは歳をとらなければならないようです (苦笑)。
(参考) 「世阿弥」 (日本の名著 10)、中央公論社、山崎正和 訳。
(2009年10月23日)