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Too much pudding will choke a dog.

 

 世阿弥は 「拾玉得花」 において以下の文を綴っています。(参考)

    こうした花の品等を説明するにあたって、ここにひとつの私案
    がある。すなわち花の種類を大きく分けて、性花 (しようか)
    [ 本質的で唯一の花 ] と用花 (ようか) [ 現象的で多様な花 ]
    のふたつを立てるのである。性花というのは上級三段階の花で
    あって、植物にたとえれば桜の花であろう。つまり、教養のある
    人士の鑑識眼にかなう品等である。

    しかし観客にも高下さまざまの品等があるものであって、たと
    えば、稚児姿の演戯ぶりがさきがけて咲く桜の一重の花弁の
    ように、眼に新鮮に映るというのはすなわち用花のひとつで
    ある。こういう花だけを面白いと見るのは、中級程度のひと
    びと、あるいは教養のない下級人士の鑑識眼である。教養
    のある人士もいったんは新鮮さを感じる心を起こし、これを
    愛好はするものの、ほんとうの性花とは認めない。

    禅の公案に 「あらゆる現象界の事実はひとつの本質の現わ
    れであり、ひとつの本質はつねに現象界の多様な事実として
    のみ実在する」 といわれている。このように本質的なひとつ
    の花 (性花) から出て、芸の品等に応じておのずから面白さ
    の個々の形態が生まれてきたのを、各種の花 (用花) と考え
    るがよい。しかしながら、稚児姿のそそる感興と、年功を積ん
    だ達人の面白さが本質的に同じかという疑問を解くために、
    両者の違いに重点を置いて性花・用花の区別を述べるしだい
    である。

    (略)面白いといい、花といい、眼に新鮮なというのは、三つ
    とも ひとつのことの異なった名前にすぎない。すなわち、
    「妙」 「花」 「面目 (めんぱく)」 の三つがあるとはいうもの
    の、感動の本質はひとつであり、(略) 妙というのは、あらゆる
    言語表現を超え、意識のはたらきを超絶した心境であって、
    その心境を眼に見えるかたちに感覚化したものが花であり、
    さらにそれを意識的に感受したときそれが面白いという状態
    なのである。

 以上の文では、「性花」 と 「用花」 が対比されて説かれています。そして、それらの概念は、以前に引用した──「反 コンピュータ 的断章」 の 10月16日付けの エッセー で引用した──「体」 と 「用」 に対応しています。

 私は、本 エッセー で、「性花」 と 「用花」 に関して注釈を試みるつもりはなくて、逆の視点で、それらを鑑識する側の 「眼」 を考えてみたいのです。すなわち、われわれは 「『性花』 を面白いと感じる」 ほどの鑑識眼をもっているのかどうか、という点を (われわれの仕事に適用して) 考えてみたいのです。

 或る大学教授 T 氏が講師をなさったデータベース・セミナー (1日セミナー [ 10:00〜17:00 ]) に私は かつて 一人の聴講生として出席したことがありました。そのセミナーは、リレーショナル・データベース の基本構造を説明したセミナーでした。そのセミナーのなかで説明された個々の知識そのものは、私には既知の知見でした。しかし、私は、かれの セミナー に感嘆しました。というのは、かれは、リレーショナル・データベース の基本構造を確実な記法 (数学的な式) で単純明晰に説明なさったから。プロダクト としての リレーショナル・データベース に関して、具体的な技術では、当時、私のほうが、たぶん、豊富に・詳細に知っていたかもしれないのですが──というのは、私は、かつて、或る リレーショナル・データベース の DBA を職にしていたので──、リレーショナル・データベース の 「実体」 について私は かれほどの的確な まとめ をできなかった。

 プロダクト としての リレーショナル・データベース には、競争商品が いくつも存在するので、みずからの特色を際立たせるために工夫を凝らした色々な機能が搭載されています。それらの機能は、或る意味では、色々に変化し移り変わる表面的な現象の産物と云っていいでしょう。いっぽうで、リレーショナル・データベース には、(コッド 関係 モデル を基底にして、) リレーショナル・データベース として統一している持続的で変わらない しくみ があります──その点を、私は、さきほど、「実体」 という ことば で示しました。

 当時、私は、リレーショナル・データベース の チューニングにおいて──そして、データ 設計において──世間で [ 勿論、データベース の領域において、という意味ですが ] 名の通った エンジニア でした。しかし、当時の私の テクニック は、世阿弥の言を借りれば、「用花」 にすぎないと云っていいでしょう。それに対して、T 氏は 「性花」 であった。われわれ practitioner から観れば、たぶん、私のほうが華々しくて、T 氏は地味で退屈に思われるかもしれない。しかし、ちゃんとした鑑識眼をもっていれば、事実は逆であることが一目でわかるでしょう──少なくとも、私には、そういう鑑識眼があったことを うれしく思っています。私は、T 氏の セミナー を聴いた直後に、講師控室を訪れて T 氏に挨拶をして謝意を述べました。

 「用花」 を愛でるのは悪いことではない。私が問題視したい点は、「用花」 を愛でても 「性花」 を鑑識できないのでは、単なる 「贔屓の引き倒し」 になりはしないか、ということです。

 
[ 追伸 ]

 世阿弥は、「拾玉得花」 のなかで、「性花」 に関連して、「安位」 について述べていますが、その説明を割愛します。興味のあるひとは、「拾玉得花」 を読んでみてください。

 
(参考) 「世阿弥」 (日本の名著 10)、中央公論社、山崎正和 訳。

 
 (2009年11月16日)

 

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