本居宣長は、「宇比山踏」 のなかで、以下の文を綴っています。
(参考)
むかしより世の中一般に漢学を主とするかたむきになって
いるものだから、なににつけても、ただかのもろこしを自分
の国のごとく内にして、皇国をばかえって外にするのは、
ことのこころを取りちがえて、もってのほかのあやまちで
ある。
さてなお外国の学は儒学、仏学その他とくにさまざま多く
あるが、みなよそのことだから今論ずるにおよばない。
あたら精力をよその国のことに使うよりは、わがみずから
の国のことに使いたいとわれらはおもう。いずれがまさり
いずれがおとるか、その品さだめなどはしらばくさしおいて、
まずよそのことにばかりかかずらってわが内の国のことを
知らないのは、くちおしいしわざではないか。
さて、やっかいな文が出てきました (笑)。以上の引用文は、「反 コンピュータ 的断章」 の テーマ ではなくて、「反文芸的断章」 の テーマ として扱うのがいいのかもしれないのですが、「宇比山踏」 を読み下すのであれば、本 エッセー で扱いましょう。宣長の謂うように、「いずれがまさり いずれがおとるか」 などという馬鹿げた品さだめをやろうなどとは私も更々思っていないのですが、「よそのことにばかりかかずらってわが内の国のことを知らないのは、くちおしいしわざではないか」 という かれの意見に対して私は賛同しますが、「さてなお外国の学は儒学、仏学その他とくにさまざま多くあるが、みなよそのことだから今論ずるにおよばない」 という かれの意見に対して私は賛同しない。
私は国文学者じゃないので、宣長に関する学術書を全然読んでいないことを最初に断っておきます。したがって、私が宣長に関して述べる意見は、あくまで、私が かれの著作を読んで、「かれが私に対して いかなる関係を構成するか」 という観点において組み立てられていることを断っておきます。
江戸時代の 「鎖国」 状態が、宣長や徂徠に対して、どのくらい影響を及ぼしたのか を私は、かれらの著作から直接に読み取ることができないので、かれらの著作 [ かれらが記述したこと ] のみを導 (しる) べにして かれらを知ろうとすれば──そして、本 エッセー では、宣長を テーマ にしているので──宣長が、これほどまでに、儒学・仏学を排斥する理由が私には皆目わからない。宣長は、学問を進める態度において、先入観を排して、用例 (ことばの実際の使われかた) を尊重し、今風に謂えば ロジカル な推論を下して結論を導くことを貫いているのですが、それほどに私意を排除する (あるいは、私意を排除できる) ひとが、じぶんの修めていない他の 「道」 を──たとえば、宣長は徂徠ほどには漢学を修めていなかったでしょうから──「みなよその国のことだから今論ずるにはおよばない」 と決め打ち (決め付ける) のは どうしてなのか、私には皆目わからない。
古事記に記述されていることを 「是認」 するという宣長の態度に私は唖然としています。というのは、古事記に記述されていることは事実的な F-真を問えないから信じるほかはない、という かれの態度は、凡そ、学問を究める ひとの態度ではないでしょう。徂徠にも そういう傾向があって、徂徠は、「聖人」 の作った制度が規範だと決め打ちしています。私が現代人だから かれらのそういう態度に同調できないのではなくて、宣長にしても徂徠にしても古代の文献を正確に注釈したにもかかわらず、じぶんたちの究めた 「道」 こそが最高であると思い込んでいることを私は同調できないのです──かれらの態度は、俗に謂えば、じぶんの恋人が最高であると逆上 (のぼ) せている態度に変わりないでしょう。小林秀雄氏──私が尊敬している批評家──なら、それが 「信じる」 ことだと謂うかもしれないけれど、私は システム・エンジニア であって、モデル の作成を──小林氏風に謂えば、「特殊風景に対する誠実主義」 に立って現実的事態を ロジック で形式的に構成する作業を──仕事にしているので、この点では、宣長の 「信」 に対して私は信を置かない。
なお、宣長の学問態度を 「実証的」 と謂っているひとがいますが、「実証」 というのは 「事実 (現実的事態) と対比して F-真が実現されていること」 だ、と私は思っているので、宣長の学問態度を 「実証的」 だとは毛頭思わない──小林秀雄氏なら、宣長の態度を 「実証精神」 [ 「客観的」 という意味ではなくて、「じぶんが考えぬいて信じた」 という意味である点に注意 ] と謂うでしょうが、モデル 作りを仕事にしている私は、「実証」 という ことば を そういうふうには使わない。ただ、宣長においても徂徠においても、原典を尊重した研究の果てに、じぶんたちの 「道」 は正しいという思いを確かにしたのであって──ただし、「正しい」 ことが 「最高である」 と同値であるとは私には思えないのですが──、もし、その逆の歩みかたであれば、かれらの原典注釈は いかがわしい宣伝文に終わっていたでしょうね──もし、かれらが じぶんたちの信じていることに対して、原典 (古代の文献) を都合の良いように読み下すような態度をとっていたならば、私は、かれらの学問のしかたを信じなかったでしょう。その意味において、かれらの学問の しかた を参考にしても、かれらの思想を信じることは私にはできない。
上に引用した文を 「反 コンピュータ 的断章」 のなかで扱ったので、私の仕事に係わる なにがしかのことを言及しておけば、「みなよそのことだから今論ずるにおよばない」 というふうに他の技術を見下げて 「じぶんの道が最高だ」 と逆上 (のぼ) せている エンジニア たちが多いことを記しておきましょう。そして、そういう連中のなかには、「モデル なんて実務には関係ない」 という我流な連中──じぶんの体験が一番に正しいと逆上せている連中──も私はふくめて前文を綴りました。
(参考) 「本居宣長」 (日本の名著 21)、中央公論社、石川 淳 訳。
(2010年 1月 1日)