本居宣長は、「玉勝間」 の 「道にかなはぬ世中のしわざ」 のなかで、以下の文を綴っています。
(参考)
道理に合わないからといって、世間に長い間ならわしとなって
いる事柄を、急にやめようとするのはいけない。ただその欠点
だけを除くようにし、現にある物事はそのままにしておいて、
真実の道を探求すべきである。
万事を、むりやり道理にしたがってなおし、実行しようとする
のは、かえって本当の道の精神に合致しないことがある。(略)
ちなみに、宣長の謂う 「道」 は 「古学 (やまとたましいの追究)」 ですが、ここでは、なんらかの範囲のなかで 「正しい (真)」 とされること というふうに翻訳しておきましょう。さらに、私 (佐藤正美) の仕事 (モデル の作成) で云うならば、「正しい (真)」 ことというのは、以下の 2つの 「真」 を実現している状態である、としておきます。
(1) 無矛盾性 (L-真)
(2) 完全性 (F-真)
(1) は、いくつかの 「公理」 を前提にして矛盾しない文法に従って導出された 「妥当な構造」 のことを云い、(2) は、その構造のなかに値を入れたときに現実的事態と一致している──言い換えれば、虚構・隠蔽・改竄がない──状態 [ 真とされる値が充足されている状態 ] を云います。モデル では、(1) は 「生成規則」 として、(2) は 「指示規則」 として構成要件とされています。すなわち、これらの規則を完備している状態が 「正しい」 モデル です。
さて、上述した 「正しい」 モデル の観点に立って、システム 設計で使われている (と思われる) 種々の やりかた──たとえば、DFD (Data Flow Diagram) とか ERD (Entity-Relationship Diagram) など──を検討してみれば、それらの やりかた が モデル ではないことがわかるでしょう。言い換えれば、「形式化」 の技術ではないことがわかるでしょう。というのは、それらは、(「形式化」 において、「L-真」 を担保するはずの) 生成規則をもっていないから。それらの やりかた は、(diagram という呼称が示しているように、) いわゆる 「見える化」 のための図であって、モデル ではない。私は、ここで、DFD・ERD の欠点を事細かに述べるつもりはないのですが、ひとつだけ付言しておけば、DFD は 「全順序 (線形順序)」 を記述するには向いているけれど、「全順序」 に関与する個体を記述しないし、ERD は 「半順序」 の構成なので、「全順序」──たとえば、事業の プロセス──を把握しにくい。しかし、現実的事態を形式化しようとすれば、「全順序」 と 「半順序」 のふたつとも記述しないと 「完全性」──現実的事態と一致した状態──を実現できない。
DFD や ERD が実際の設計において使われているのかと云えば、(たぶん、政府関係の入札のほかでは、) 私の観るかぎりでは、ほとんど使われていないようです [ UML も、同じような状態にあるようです ]。そして、モデル も ほとんど使われていない。DFD らしき物や ERD らしき物は、いくぶんか使われているようです。
そういう無法状態のなかで、モデル を導入しようとすれば、かならず、抵抗されます。その抵抗を撃破しようと向きになれば、モデル を過大に賞賛してしまい 「かえって本当の道の精神に合致しない」 状態に陥る危険性が高い。したがって、そういう抵抗を撃破しようと躍起にならないで、ロジック の正当性を落ち着いて説得するほうがいいでしょうね──ロジック の正当性は、だれも否定できないのだから。もし、ロジック の正当性を否定する ひとがいるとしたら、たぶん、そのひとは (今まで我流で通してきたが故に、) じぶんが今まで享 (う) けてきた 「既得利権」 を喪うのが嫌で抵抗しているのでしょう。そういうひとにとって、「真」 というのは、そもそも、邪魔でしかない。というのは、じぶんの便益を優先的に認めて、システム が ユーザ に貢献することなんか考えてもいないのだから。「ビジネス では、論理的に正しいことのみが通る訳ではない」 というような言い古されてきた (stereo-type の) 譫言を今更ここで向きになって反論するつもりは私には更々ない。
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、大久保 正 訳。
(2010年 1月23日)