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There may be blue and better blue.

 

 本居宣長は、「玉勝間」 の 「師の説になづまざる事」 のなかで、以下の文を綴っています。(参考)

    わたくしが古典を解釈する場合、先生の説と相違していること
    が多く、先生の説に悪い点のあるのを指摘することも多いのを、
    弟子としてとんでもないことだと思う人も多いようだが、これは
    そのままわが師賀茂真淵先生の精神であって、先生がいつも
    教えられたことは、「後によい考えが出て来たら、必ずしも師の
    説と相違するからといって遠慮したりするのでないぞ」 と教え
    られたことであった。これはまことに尊敬すべき教えであって、
    わが師の、格段にすぐれていられた点の一つである。

    だいたい古代を研究することは、とても一人や二人の力で、
    すっかり明らかにしつくすことができるはずもない。また
    すぐれた学者の説であるからといって、多くの中では、誤り
    もどうして無くてすもう。必ず悪い点もまじらないわけには
    いかない。その説を立てた人自身の心では、「これでもう
    古代の精神はすべて明らかである。この説以外には正しい
    説があるはずもない」 と考えて決定したことでも、案外に
    また他人の違ったよい考えも出てくるものである。多くの人
    の手にわたる間に、以前の考説の上に、更に熟考し究明
    するので、次々と精細になっていくものであるから、先生の
    説だからといって、必ずこれを固守すべきものではない。
    その説の良い、悪いを論ぜず、ただひたすら旧説を固守
    するのは、学問の道では無益なことである。(略)

    わたくしは、「道」 を尊び、古代を考察してひたすら 「道」
    が明らかになることを思い、古代の精神の究明されんこと
    を第一と思うので、私的に先生を尊ぶという道理に欠ける
    ことを、省みてはいられないこともあるのだが、それをやはり
    「宣長の態度はよろしくない」 と非難する人は非難したらよい。
    それはいたしかたのないことである。「わたくしは他人から
    非難されないようにしよう。評判のよい人になろう」 として、
    「道」 を曲解し、古代の精神を曲解して、そのままにしている
    ことはとてもわたくしにはできないのである。このわたくしの
    態度は取りも直さず真淵先生の精神であるから、かえって
    先生を尊ぶことにもなるであろうか。それはともかくとして。

 以上に引用した文は、現代に生きる私の眼から観て 「当然のこと」 であって、取り立てて注目すべき点があるとは思えないのですが、江戸時代 (中期) の常識では、宣長の態度は無礼だと思われたのかしら。

 江戸時代の常識と言いましたが、案外、現代でも、宣長が苦言を呈している態度──先生の説に悪い点があるのを指摘するのは弟子としてとんでもないことだとみなす態度──は遺っているのかもしれない。大学院の研究室にいる弟子たちは、上に引用した文を読んで、どういうふうに感じるかを聞いてみたいですね。尤も、研究室にかぎらず、企業においても、上司と部下のあいで観られる関係かもしれない。世間の常識は、人間関係において、250年前に較べて、さほど変わっていないのかも。

 私の場合、モデル の学習において 「師」 と仰ぐ人たちは、ほとんど すべて、故人であって、書物でしか学ぶことができないので、宣長が謂っているようなことに気を遣うこともなかった──書物でしか学ぶことができないというのは、人間関係に煩わされないという利点があるいっぽうで、対話ができない [ たとえば、師の書物を読んで理解できなかった点を質問することができない ] という弱点もあるのですが。尤 (もっと) も、大学院で先生から直接に指導された時間を合計してみれば、案外、少ないのではないかしら。言い換えれば、弟子は、先生から少し助言してもらって、ほとんどの時間を じぶんで研究する──独学する──体制になっているのではないかしら。

 さて、宣長の謂っている点で、いちばんに難しい点は、「『道』 を明らかにしている」 という自負が 「独り善がり」 ではないということを いかにして証明するかという点でしょうね。幸いにも、モデル では、この点は、わかりやすい形に集約されています。すなわち、以下の規則を定立して、その規則に従った形式化を考えればいい [ カルナップ 氏が示した論理的意味論の構成要件です ]。

 (1) 指示規則 (記述的定項 [ たとえば、個体と述語 ] を定義する)
 (2) 生成規則 (許された文の形式を定義する)
 (3) 真理性 (「真」 を定義する)
 (4) 範囲規則 (文が成立する状態記述 [ 真と偽 ] の集合を定義する)

 そして、さらに、形式的構成を描くための記法 (diagram) があればいい。

 単純に言い換えれば、形式的言語 L では、「語彙と文」 が定義されていて、語彙を組み合わせて文にする 「文法」 が用意されていて、構成された文が 「真」 であるか 「偽」 であるかを判断できる尺度が示されている、ということ。 そして、できれば、その形式的構成を有向 グラフ として記述できる記法があればいい。これらの要件が 「モデル の 『道』」 です。そして、この 「道」 を逸脱しないようにして、モデル の具体的な技術を作らなければならない。もし、個々の技術において、モデル の要件から逸脱している点がであれば、それは、宣長の言いかたをすれば、「悪い点」 です。

 TM の文法には、数学的に証明できない点が一つ残されています──それは、「event-対-resource」 の文法です。その文法は、ホワイトヘッド 氏・パース 氏の形而上学的な説を使って構成されています。だれかが、この文法の是非を論じてほしい──私は、その文法が是だと思って作っているのですが、ひょっとしたら間違っているかもしれないので、だれかが反論を示してほしい。私は自説に固守している訳ではないので。私の目的は、正しい モデル を作ることです。

 
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、大久保 正 訳。

 
 (2010年 2月16日)

 

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