本居宣長は、「玉勝間」 の 「から人のおやのおもひに身をやつす事」 のなかで、以下の文を綴っています。
(参考)
シナ の国の、代々の識者たちが、親の喪にさいして、身体の
ひどく痩せ衰えているのを、孝心の深い事として記録したもの
がたくさんある中には、実際に心の悲しさは、それほど甚だし
くもなかったであろうのに、食物をひどく減らしたりなどして、
痩せて骨と皮ばかりのようになり、わざと容貌を見すぼらしく
て、ひどく悲痛らしく表面を見せかけたのが多かりそうに見え
るのは、例によってとてもいやみなしわざであるのに、えらい
こととしてほめているのもまた馬鹿げたことである。
亡くなった親を、真実に思う心持ちが深いなら、自分の身をも、
それほど痩せ衰えさせてよいものであろうか。(略) そういう
親の心持ちを察しないで、ただ世間の人目をだけとりくつろっ
て、名誉をむさぼるのは、何でりっぱな事であろう。すべて
孝行でも何でも、世間と違った目立つ行為をして、えらい事だ
と思わせるのは、あの シナ の国の人の常例なのであった。
「古学」 を最高だと思っている宣長の 「唐国批判」 の一つです (笑)。
この文を読んで 「そうだ」 と賛同するような現代人は、──中国に対して、なんらかの偏見を抱いていない限り──、まず、いないでしょう。宣長は、「喪」 という制度のなかで、シナ の国の人たちが じぶんの 「りっぱさ」 を見せかけることを非難していますが、日本においても、武家の 「冠婚」 制度では、同じような現象が多かったのではないかしら。なんらかの 「社会制度 (慣習、手続き)」 が整えられているなかでは、当事者どうしのみ [ 相対 ] で事が完了するということは、なかなか、できないのではないかしら。
さて、私が 本 エッセー で テーマ にしたいのは、宣長の文のなかで 「ただ世間の人目をだけとりくつろって、名誉をむさぼるのは、何でりっぱな事であろう [ 否、りっぱな事ではない ] 」 という文です。この文で述べられていることに対して反対するひとはいないと思うのですが、はたして、この文で非難されていること [ ただ世間の人目をだけとりつくろって、名誉をむさぼること ] が、同じ聴衆を対象にして くり返された場合に通用するのかと考えたとき、通用しないでしょう、きっと。「ただ世間の人目をだけとりつくろって、名誉をむさぼる」 ことを続けるには、聴衆を つねに変えなければならないでしょうね。もし、聴衆を つねに変えて、「ただ世間の人目をだけとりつくろって、名誉をむさぼる」 ことができたとしたら、それはそれで見事な ワザ でしょうね──そんなことは、起こりえないと私は思っていますが。
逆のことを考えてみれば──たとえば、システム・エンジニア が じぶんの専門技術を世間に向かって訴求することを想像して──、もし、つねに 同じ聴衆を相手にして──そういうことも起こりえないと思うのですが──、10年以上のあいだ魅惑し続けることができたとしたら、その ワザ は真物でしょうね。現実的には、聴衆の 60%とか 70%が入れ替わって──言い換えれば、聴衆の 30%とか 40%が常連でいて──、聴衆を魅惑し続けることができれば、その ワザ は本物でしょう。われわれは、同じことを継続して聞かされることを嫌いますが、いっぽうで、次から次に新しいことを聞かされることも嫌悪します。したがって、技術を伝える システム・エンジニア のほうも、じぶんの技術を環境変化とか時代の taste に対応して少しずつ整調してゆくことになるでしょう。この点については、以前、「反 コンピュータ 的断章」 のなかで、世阿弥の著作を材料にして考えてきたので、ここでは割愛しますが、私は、つねに、そうありたいと希 (ねが) って、TM を整えてきました。
ただ、私がそう希っても、世間は私の思いどおりに反応する訳じゃない。世間の反応とは、つねに事後報告 [ 批評 ] です。私が セミナー 講師として立った年齢は 30歳すぎだったので、かれこれ、25年くらい (四半世紀です!) に亘って、批評を浴びる側として立ってきました。25年間も批評される側に立っていれば、高い評価を獲得する [ 聴衆を喜ばす ] ように セミナー を構成する ウラワザ も身につけていますが、そういうふうに構成した セミナー は、いかんせん、私が訴えたいことと合致しない。幸い、私が セミナー 講師を務めている セミナー 会社は、私が思い通りに セミナー を構成しても承諾してくださるので、私は思い通りに セミナー を構成してきて満足しています。セミナー では、私は思うがままに しゃべっているので、時には、アンケート に 「自慢話を聴きに来たのではない」 という非難を綴られたこともあります。ただし、私は、セミナー のなかで、挑発的な言いかたをしても、自慢気な言いかたをしたことは一切ない──25年も講師を務めていれば、セミナー の隅々に至るまで計算ずくで構成していて、自慢話を鏤 (ちりば) める下衆(げす)い体系など作りはしない。自慢話などしても、10年は通用しない。「ただ世間の人目をだけとりくつろって、名誉をむさぼる」 などは下衆張った一人芝居であって、そんなことは コンピュータ 業界の或る限られた領域を聴衆の範囲にしていれば 1年も耐えられない (あるいは、自殺行為である) ことくらい、セミナー 講師を10年以上努めてきたひとなら承知しています。
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、大久保 正 訳。
(2010年 3月 1日)