本居宣長は、「玉勝間」 のなかで、「ひとむきにかたよることの論ひ」 を綴っています。
(参考)
引用文が長いので、便宜上、ふたつに分けて──原文では、段落分けされていないのですが──、それぞれの段落に対して番号を付与しておきます。
[ 1 ]
世間の学者が、他の学者の説のよくないのを非難せず、
一方にかたよらないで、この説も、あの説も捨て去ら
ないような論をするのは、たいていは自分の把握した
趣意を通さないで、世間の人々の考えにまんべんなく
妥協しようとするものであって、真実の態度ではなく、
卑劣である。たとい世間の人は、どんなに非難しよう
とも、自分の考える条理を通さずに、他の説に従うべき
ものではない。人の毀誉褒貶 (きよほうへん) を気に
かけてはならないことである。だいたい一方に傾いて、
他の説を悪いと非難することをば、狭量で感心しない
ことだとし、一方にかたよらないで、他の説をも悪い
とは言わないのを、度量が広く穏健で、立派なことだ
とするのは、世間一般の人の気持ちのようであるが、
けっしてそれは賞賛に値するほど立派なことでもない。
[ 2 ]
根拠とするところが一定していて、それを深く信じる
心であるなら、かならず一方の説によるのが当然である。
それと違った説を採用すべきではない。自分がよいと
して依拠する説と違ったものは、みな悪い説なのである。
この説がよければ、他の説はきっと悪い道理である。
それを、この説もよいし、またあの説も悪くないという
のは、自分の立脚点が一定せず、信じなくてはならない
ところを、深く信じないものである。自分の依拠する説
が一定して、その説を信じる心が深いなら、それと条理
のちがっている説がまちがっていることを、しぜんに
非難しないではいられない。それが自分の信じるところ
をどこまでも信じる真剣な気持ちというものである。
他人はどう思うか知らないが、わたくしは一方の説に
傾いて、他の説を非難するのも、けっしていけないこと
だとは思わないのである。
以上の文は、前回までの 「反 コンピュータ 的断章」 で引用してきた 「宣長の唐国批判」 に関する 「言い訳」 にも聞こえますね (笑)──特に、[ 2 ] が。
[ 1 ] について私は賛同しますが、[ 2 ] については、宣長が思い違いをしていると私は判断します。宣長が [ 2 ] を主張するためには、大事なことを ひとつ見落としていると思います。[ 2 ] を主張するためには──「自分がよいとして依拠する説と違ったものは、みな悪い説なのである。この説がよければ、他の説はきっと悪い道理である」 と主張するためには──、(それぞれの説が導かれるための) 「前提が同じである」 という制約・束縛を置いていなければならないでしょう。「前提」 の違う ふたつの説を比較して良し悪しを論じることは、料理 (クッキング) において、中華風と和風を比較して 「良し悪し」 を論じるのと変わりがないでしょう──文化を論じることと (その文化のなかで生じた事態に対して 「構成要件」 を問うために) 思考することを同じ論法で分析できないでしょう。あるいは、「前提の違う」ふたつの論を、「同じ現象」に適用して、どちらかの ききめ (有用性) が高ければ、ききめ の高いほうを 「選ぶ」 ということは正しいけれど、ききめ の低いほうが 「間違っている」 という判断にはならないでしょう。勿論、或る前提から導かれる構成が矛盾であれば、ひとつの論にはならないので、ここでは、そういう論を論外としておきます。
徂徠なら、以下のように反論するかもしれない。
そのうえ、「事物当行の理」 という言葉は、この世の
中の何事にでも広く あてはまる言葉です。茶の湯・
生花・和歌・書道・剣術、あるいは小笠原流の立ち居
振舞いにも、上下 (かみしも) の着こなしにも、大小
の指し方にも、これはこうあるべきはず、それはそう
あるべきはずという、ちょうどよいくらいの塩梅 (あん
ばい) というものはあるものでしょう。しからば、これ
が みな聖人の道というものなのでしょうか。事は
違っても理は同じことと考えて、右のような類まで聖人
の道と考えるのなら、これはまことに杜撰 (ずさん)
も はなはだしいと言わねばなりません。
「前提」 の違う事態をいっしょくたにするな、と。逆に言えば、「前提」 の違いを意識せよ、と。私は、宣長を──正確に言えば、宣長の古文研究法を──賛嘆していますが、[ 2 ] のような言い立ては 「じぶんの恋人が一番に すてきだ」 と思い込んでいる自画自賛と同類だと思っています。「他人はどう思うか知らないが、わたくしは一方の説に傾いて、他の説を非難するのも、けっしていけないことだとは思わないのである」 って? 確かに、それが同じ前提で導かれた説であれば。しかし、そうでなければ、妄信でしょう。
オブジェクト 指向でも TM でも、どちらでも良い──もし、それらが、無矛盾性と完全性が実現されている説であれば。そして、それらが無矛盾性と完全性を実現しているのであれば、どちらを選ぶかは、それこそ、「信じる」 気持ちに委ねられるでしょう。
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、大久保 正 訳。
(2010年 3月23日)