本居宣長は、「玉勝間」 のなかで、「もろこしの老子の説まことの道に似たる所ある事」 を綴っています。
(参考)
わたくしは今、古 (いにしえ) の真実の道の趣意を究明して、
著述したが、漢学者仲間の中には、それを シナ の老子という
人の説によったのだと考えたり、言ったりする人が、あれこれ
とある。いったいわたくしが道を説く趣意は、少しもわたくし個人
のりこうぶった考えをまじえず、神代のことを書き記した書物
のままであることは、他の諸注釈と比較して見たらわかるはず
である。してみれば、わたくしの説く道の趣意が、たまたまあの
老子という人の言説と似た個所があるのを見て、意外にも、
老子の説によって説いているというのは、例によってあの シナ
の国以外にはりっぱな国はなく、シナ でなくては何事も始まら
ないことだと、いちずに思いこんでいる偏見から、そう考える
もののようである。(略)
実はひじょうに相違していて、全然似ても似つかないことである
のに、あの漢学者連中は、そんな相違している点を知らないで、
たまたまちょっと似たところがあるのをつかまえて、老子の説に
よったと言い立てるのは、たいへんばかげたことであるよ。だい
たい何事でも、しぜんあれにもこれにも共通し、類似していること
は、必ずまじるものであって、わが国の古道も、儒教の精神と
共通している点もまじり、仏教とも類似した点もまじっているわけ
だから、しぜんあの老子の説とも、一部分類似した点、共通した
点は、どうしてまじらないということがあろうか。
さて、私 (佐藤正美) は、上に引用した宣長の意見のすべてを必ずしも納得している訳ではないのですが、上の引用文のなかで 「シナ」 を 「アメリカ」 に置き換えたら、現代でも通用する意見ではないかしら。呑気な学者根性の論文には、「アメリカ によれば」 という言いかたが多々使われています (苦笑)。
宣長が述べている点は、実を言うと、TM (T字形 ER手法の改良版) に対しても言われてきました──たとえば、「event と resource」 に関して、「動詞形と名詞形という考えかたは昔からあったよね」 とか (苦笑)。私は、「動詞形と名詞形」 などという宜い加減なことは言ってきたことはない──拙著 「T字形 ER データベース 設計技法」 (1998年) のなかで、確かに、(entity 名称に対して) 「○○する」 という動詞を付与してみて意味が通れば 「event」 系であるという記述をしていますが、その記述の直後に、「ただし、これは簡便法である」 と注意して、「event」 の正確な定義を与えています。宣長風に言えば、「そんな相違している点を知らないで、たまたまちょっと似たところがあるのをつかまえて、○○の説によったと言い立てるのは、たいへんばかげたことであるよ」。
そして、もう一つ、宣長風に言えば、「いったいわたくしが 『モデル』 を説く趣意は、少しもわたくし個人の りこうぶった考えをまじえず、数学基礎論の 『モデル』 の説を基底にしていることは、わたくしの諸注釈を見たらわかるはずである」。
「帰納的関数」 を起点にして コンピュータ が誕生しました。そして、「モデル」 では、「帰納的関数」 を使います──あるいは、こう言っていいでしょう、「帰納的関数」 は、コンピュータ技術のほとんどで使われている、と。「モデル なんか知らなくていい」 とか 「モデル なんか役に立たない」 などと言っている システム・エンジニア は、じぶんが、いったい、どういう職場で仕事をしているのか自覚しているのかしら。
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、大久保 正 訳。
(2010年 5月16日)