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No horse is so good but that he will at times stumble.

 

 本居宣長は、「玉勝間」 のなかで、「世の人仏の道に心のよりやすき事」 を綴っています。(参考)

     仏教には、あれほど利口ぶっている当世の人の心でも傾き
    やすいのは、だんぜん仏教が最良であると決断したわけでも
    ないけれど、昔から広く盛んにゆきわたって、世間の人一般
    が、みな行なっている教えであるので、一面ではそれにさそ
    われる人が多いのである。すべて何事でも、世間に広まり、
    人がみんなする事には、だれでも何となく心が傾きやすいの
    が一般である。

 この文の テーマ は 「仏教に人々が惹かれる理由に対する非難」 で、その非難の由として 「みんなする事には、だれでも何となく心が傾きやすい」 という一般論を使っていますが、私は こういう論法を いかがわしく思います。宣長は、仏教に人々が惹かれる理由に対する非難のなかで、「一面では──原文では 『かたへは』──」 というふうに範囲を限っていますが、かれの最終の意見では、人々が 「仏教を最良であると決断したわけでもない」 として、「すべて何事でも」 とか 「みんなする事」 とか 「だれでも」 という語を使って汎化した論を使っています。私は、エンジニア を職としているので、こういう論法に対して 「生理的な嫌悪感」 を覚えます。

 宣長は、「正法眼蔵」 (道元) を読んでいたのかしら、、、かれが それを読んでいたかどうかを私は調べていないのですが、私が そういう質問を抱いた理由は、亀井勝一郎氏の以下の ことば を思い起こしたからです──かれの著作 「思想の花びら」 に収録されています。

     一体、神は存在するのか。仏は存在するのか。その証明は
    「聖書」 と 「仏典」 のなかにある。神よりの、仏よりの、「言葉」
    のなかにのみある。ただそこにのみあって、宗派にはなく、
    宗論にもない。「言葉」 と対決すべきであり、死ぬまで対決
    すべきである。

 宣長は 「仏教が最良であると決断するかどうか」 という問いにおいて、そういう覚悟で仏教と対決したのかしら。そういう覚悟を抱く前に、宣長の持説のように 「皇国の物でないから日本人の精神に合わない」 という考えを前提にされてしまうと、古い時代に──たとえば、奈良時代・平安時代に──「帰化人から学んだ技術を導入して日本化した物」 を使わないでください、という皮肉の ひとつでも謂いたくなりますね。たとえば、「紙」 の製法を日本に伝えたのは、610年 (推古 18年) に渡来した高句麗の僧 曇徴 と謂われてきましたが [ 「日本書記」 の伝 ] 、その頃には戸籍を作成するために用紙を厖大に費消する社会になっていたので、曇徴以前に製紙技術は伝わっていたと考えるのが妥当でしょうね。そして、日本で漉かれた 「和紙」 という独自の紙が 「正倉院文書」 に数多く記されています。いずれにしても 「製紙」 は伝来品で──以後の時代で、「唐紙」 という言いかたもされますが──、「和紙」 は日本化された加工品です。あるいは、こう謂ってもいいかもしれない──伝来の思想と直に向きあって摂取してきた精神も 「やまと の たましい」 だった、と。

 日本語の 「表記」 も漢字から生まれました。宣長の論法に従って謂うのであれば、「さてまた漢籍をもあわせ読むがよい。古書はみな漢字、漢文を借りて記されていて、とくに孝徳天皇、天智天皇の時代のころより以後は万事かの国の制度によったものが多いので、史書を読むにも、かの国の文章のようすをもたいていは知っていなくてはゆきとどかぬふしが多いからである」。では、鎌倉時代に 「新仏教」 として日本化した仏教を どのように考えればいいのでしょうか。「さてまた仏典もあわせて読むがよい。とくに聖徳太子、聖武天皇の時代のころより以後は万事かの国の宗教によったものが多いので、護国を考えるにも、かの国の宗教のようすをもたいていは知っていなくてはゆきとどかぬふしが多いからである」 という論法も いっぽうで成り立つでしょう。しかし、それを認めたら、宣長の説は矛盾するでしょうね。仏教を非難するのであれば、仏典と対決すべきであって、「昔から広く盛んにゆきわたって、世間の人一般が、みな行なっている教え」 を対象にしても俗説を非難しているのであって仏教を批評していることにはならないでしょう。宣長が陥った荒言 (広言) と同じ論法で TM を非難している人たちがいることも私は聞き及んでいます (苦笑)。

 
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、大久保 正 訳。

 
 (2010年 6月 1日)

 

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