本居宣長は、「玉勝間」 のなかで、「道のひめごと」 を綴っています。
(参考)
どの道においても、その道のたいせつなこととして、世間に
は広くもらさないで、秘密にし、隠すことが多い。ほんとうに
その道がたいせつであるならば、とりわけ世間に広く知らせ
たいものである。あまりおもおもしくして、容易に伝えないよ
うにすると、狭くなって絶えてしまいやすいものである。それ
もむやみと広く知らせてしまえば、その道が軽々しくなること
だというのも、一応は道理があるようだが、たとい軽々しく
なる点はあるとしても、やはり世間に広まる方がよい。世間
に広まれば、自然と重々しい点はあるものである。どんな
重々しいといっても、狭い範囲にほそぼそと行なわれている
ようなのはよいことではない。ましてとだえでもしたら、何の
かいがあろうか。
上に引用した文は、宣長が 「秘伝・口決」 を非難した文です。私 (佐藤正美) は、宣長の文に対して同感を覚えます。私は TM (T字形 ER手法の改良版) を、いささかも、「秘伝・口決」 として扱うようにはしてこなかった──ウィトゲンシュタイン 氏流に云えば、「なにも隠されていない」 ようにしてきました。私は、TM の理論・技術を作るにあたって、なにも隠してこなかったけれど、システム・エンジニア たちが TM を 「確実に」 伝承できるかどうかは べつの争点でしょうね。
TM を 「確実に」 習得するためには、数学基礎論・言語哲学の知識を或る程度 習得していなければならないでしょう。勿論、TM は具体的な 「技術」 なので、「技術」 それ自体を習得することは簡単です──2日間ほどの説明を聴けば習得できるでしょう。ただ、小悧巧な連中は、TM の 「簡単な」 技術を 「実地に使っていて簡単すぎるので」 変更したがるようです。もし、TM が現実的事態を 「完全に」 記述できないような事態が起これば、当然ながら、TM を変更しなければならないのですが、そうでないときに、TM を気随に変更されるのは改悪にすぎない。そして、もし、TM の技術を変更するのであれば、TM が基底にしている数学基礎論・言語哲学の学説を 「確実に」 習得したうえで、学説から逸脱しないように変更していただきたい──勿論、TM が基底にしている学説のほかの学説を新たな 「公理」 として導入してもいいのですが、「無矛盾性」 「完全性」 を破らないような公理系にしていただきたい [ φ (x1,・・・, xn ∨ y) ]。
TM の文法を無視して TM の記法 (「T之字」 記法) のみを パクッった連中がいましたが、TMD (TM Diagram) は 「有向 グラフ」 であって、ちゃんとした 「モデル の意味」 を持っているのだから、そういう でたらめな借用はやめていただきたい。「有向 グラフ」 であるかぎりにおいて、TMD では、「箱 (entity)」 ではなくて 「線 (relation)」 が生命線です──「線」 が生命線ということは、文法が生命線ということです。そして、TM の文法では 「なにも隠されていない」。
TM を なにかしら 「思想」 のように思い違いしている連中もいるようですが、TM は 「技術」 であって、それ以上でも それ以下でもない。TM の技術が数学基礎論・言語哲学の学説を基底にして作られているので、TM を 「思想」 として思い違いしている連中は、たぶん、そういう学説が なにかしら 「深遠な思想」 のように思われて TM も 「深遠な思想」 のように思っているのでしょう。TM が基底にしている学説は、数学基礎論・言語哲学の領域では、極々基本の学説であって、難しい学説を導入している訳ではない。数学基礎論・言語哲学を知らないなら知らないでいいし、それらを知らないことが恥でもなんでもないでしょう。それらを 「知ったふり」 されるほうが茶番でしょう。それらの学説を 「知ったふり」 されると、まるで、それらの学説を基底にしている TM が 「深遠な思想」 のように思い違いされて 「秘伝・口決」 の性質があるようにさえ思われてしまいます。TM は、「技術」 であって、「なにも隠されていない」 し、「不意打ちのない」 体系になっています。そして、私は、いままでの一連の拙著のなかで、TM が基底にしている学説と TM の理論・技術を明らかにしてきたつもりです──拙著 (「黒本」 「論考」 「赤本」 および 「いざない」) は、ひたすら、私が TM を作るうえで犯した いくつかの間違いを訂正することと、TM の体系を パーフェクト にするために使った学説を明らかにしてきました。私は、TM が 「秘伝・口決」 の性質を帯びることを一番に嫌っています。
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、大久保 正 訳。
(2010年 6月16日)