本居宣長は、「玉勝間」 のなかで、「物まなびはその道をよくえらびて入そむべき事」 という以下の文を綴っています。
(参考)
学問に志したならば、まず師をよく選んで、その先生の主張
や、教え方をよく考えて、師事しはじめるべきものである。
理解力のにぶい人はもちろん、生来理解力の鋭い人でも、たい
てい最初に学びはじめた学風に、自然と心が引きつけられて
いくものであって、その学問の方法がまちがっていても、その
わるいことを理解できず、また後にはそれに気づきながらも、
年来の習慣は、やはり捨てがたいものである上に、さらに我執
とかいう禍神 (まががみ) さえも寄りそって来て、あれこれと
無理なこじつけをして、あいかわらずその学風を弁護しようと
するうちに、とうとう正しい学問をすることができないで、一生
まちがいばかりし続けて、生涯を終わるといった例は世間に
多い。こういう種類の人は、努力して深く学問をすると、学べば
学ぶほど、ますます欠点だけが増大して、自分自身正しい道を
見失っているばかりでなく、世間の人々をさえ迷わすものである。
くれぐれも最初から、師をよく選ばなくてはならないことである。
このことは、「ふひ山ぶみ」 に述べるはずであったが、書きもら
したのでここに述べておくのである。
上に引用した文を私 (佐藤正美) が読んだとき、宣長の観察に対して共感しましたが、かれの意見に対しては違和感を覚えました。かれの観察に対して共感した点は、「たいてい最初に学びはじめた学風に、自然と心が引きつけられていくものであって、その学問の方法がまちがっていても、そのわるいことを理解できず」 という点です。ただ、それは当然であって、最初に学びはじめた学風というのは、最初に学び始めた人たちにとって、その説が正しいかどうかという判断などできる知識はないのであって、しばらく学んだあとになって判断できる知識が次第に蓄積されてゆくでしょう。そして、知識・体験が蓄積されるにつれて、師から学ぶ (師を真似る) と同時に、じぶんで考えるようになってきてはじめて、じぶんで判断できるようになるでしょう。
さて、知識・体験が蓄積されるにつれて、じぶんで判断できるようになったひとが 「習慣・我執に囚われて間違いを是正しない」 ことを宣長は非難していますが、はたして、そういう人たちは、「学界 (学術の領域)」 でやっていけるのかしら [ 当然やっていけない (淘汰される)、と私は思います ]。
「真理」 を追究する道では、師も弟子も同じ 「学徒」 である、という当然のことを外さなければいいだけのことでしょう。したがって、じぶんの考えかたのなかに間違いがあったと知ったならば、直ちに是正すればいいだけのことです。こんな当然のことは、学者なら直知しています──なぜなら、もし、間違いを こじつけで擦 (なす) って一時的に体裁を繕えば、やがては 「学者生命が断たれる (命取りになる)」 ことを知っているから。「学者生命 (の終わり)」 という対価を払ってまで、こじつけで理窟を言う学者はいないでしょう。
宣長の意見は──かれは 「学風」 という言いかたをしていますが──、「ロジック を 『純粋に』 使わなくても やっていける世界」 で起こる現象でしょうね。「反 文芸的断章」 (2010年 5月 1日) で引用した小林秀雄氏の謂う世界で起こる現象でしょうね。そして、やっかいなことに、コンピュータ 業界の・いわゆる「業務分析」 が そういう世界だと思い違いしている システム・エンジニア が多いようです (苦笑)。そういう世界でも、じぶんが今まで苦労して獲得してきた知識が間違っていたとわかったら、一切捨て去る覚悟のある職業人を私は 「教養ある人」 だと思っています。
もし、「師」 を選ぶことにこだわるのであれば、「真理の前では、弟子も自分も同じ 『学徒』 である」 という意識を持っているひとを 「師」 にすればいいでしょうね。私は、講演や セミナー では、とても 「挑発的な」 言いかたをしますが、「真」 に対して、とても謙虚なつもりです──私の講演・セミナー を聴いたひとは、私が かつて犯した間違いを 「懺悔」 するのを多々聴いたでしょう (「多々」 というのが、頭の悪い私が払わなければならなかった対価ですが [ 苦笑 ])。
そして、いっぽうで、他人 (ひと) の言説を言いかえたのみで、あたかも じぶんが悧巧なように しゃべっている ヤツ らを、私は下卑て罵倒します。30年近くも ひとつの道を歩いてくれば、その道を かつて歩いた人たちの言説を一通りに読んでいて、だれが どういうことを語ってきたかくらい私にもわかるので、そういう先人の言説を単に言いかえて いっぱしに悧巧なふりをしている ヤツ らに対しては、悪口が反吐のように込みあげてきます。そういう ヤツ らを私は相手にしたくないのですが、私は根が莫迦 (ばか) なのか生一本なのか、そういう ヤツ らを見逃せない。すでに やりかた が整えられている領域において、他の人たちに比べて巧みにやれたとしても、習い事が 一寸上手だというだけのことでしょう。そういう領域を整えるために苦労して戦ってきた先人たちの言説を口真似している──禿鷹のように残骸を漁っている── ヤツ らに対して、いっぱしに専門家を気取るんじゃないと私は罵倒したくなる。そういうふうに罵倒する私のような人物も 「師」 には ふさわしくないでしょうね (苦笑)。
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、大久保 正 訳。
(2010年 7月 8日)