本居宣長は、「玉くしげ」 のなかで、以下の文を綴っています。
(参考)
身におはぬしづがしわざも玉匣
あけてだに見よ中の心を
上に引用した文は、「玉くしげ 上」 の最初に綴られている文です──現代風に謂えば、「扉の ことば」 と云っていいでしょう。「玉くしげ」 は、紀伊侯 徳川治貞が領内から治道・経世の意見を広く徴した際 (天明七年 [ 1787年 ]) に、宣長 (当時、58歳) が上奏した書で、上・下の ふたつで構成されています。そして、「別巻」 として、経世論の根本を成す古道を説いた一巻を添えています。「玉くしげ」 は、荻生徂徠の著作 「政談」 に似た性質です。
さて、上に引用した文の現代語訳 (太田善麿氏の訳) を以下に示します。
身分不相応ないやしい者のしわざではあっても、中にこもって
いる心がいかなるものであるか、せめてあけて見るだけは見て
もらいたいと願う
私 (佐藤正美) は、上に引用した 「玉くしげ」 の ことば を とても気にいっています──この文を読んだときに、鉛筆で下線をひきました。書物・論文を執筆したひとは、宣長が綴った気持ちを共感できるのではないかしら。拙著 「モデル への いざない」 (2009年 2月出版) [ 以下、「いざない」 と略 ] の 「扉の ことば」 として、上の引用文を使おうと思ったくらいです。「いざない」 の 「扉の ことば」 は、最終的には、以下の文にしました。
「TM の会」 に
この研究会がなかったら、本書は存在しなかったであろう
「TM の会」 (登録人数 百十数名) は、私が モデル の研究をすすめるうえで、とても役立っている会です。だから、「扉の ことば」 として、会員たちへの感謝文を選びました。「TM の会」 への感謝文といっしょに宣長の文も並記してもよかったのですが、「感謝」 と 「胸中の吐露」 をいっしょにするのは気がひけたので、感謝文のみにしました。
宣長が吐露した胸中は、そのまま、私の胸中であって、「いざない」 は、まさしく、そういう性質の著作です。私は今まで 9冊の著作を上梓してきましたが、「いざない」 は、それらのなかで血色のちがう著作です──「いざない」 は、自説を述べるという性質の著作ではなくて、私が辿ってきた道を明らかにした著作です。「いざない」 を脱稿したときに私の胸中に自然と浮かんできた思いは、「思えば遠くにきたなあ」 という思いでした。
拙著のなかで、数学基礎論・哲学を扱った著作として、(「いざない」 のほかに、) 「論理 データベース 論考」 (2000年 3月出版) [ 以下、「論考」 と略 ] がありますが、「論考」 と 「いざない」 では、性質が極めてちがいます。「論考」 は、昔の 「T字形 ER手法」 を新しい前提に転回する役割を担った著作ですが、「いざない」 は、その新しい前提を起点にして歩いた風景を綴った著作です──昔の 「T字形 ER手法」 を 「TM (および、TM’)」 として整えるために私が辿った道を記述した著作です。まさに、宣長の謂う 「身におはぬしづがしわざも玉匣、あけてだに見よ中の心を」 いう気持ちを実感した著作です。私にとって、「いざない」 は、とても 「愛 (いと) おしい」 著作です。ただ、「いざない」 を出版したあとで、私は、じぶんの頭の悪さを痛感するはめになるのですが、、、。
拙著のなかで一番に気に入っている著作はどれかと問われれば、私は 「いざない」 を躊躇 (ためら) わないで選ぶでしょうね。「いざない」 は、数学基礎論の専門書を読むための 「梯子 (はしご)」 の役割として執筆しましたが、いっぽうで、数学基礎論・言語哲学の諸説が TM のなかで どのようにして使われているかを明らかにした書物なので、マーケット で ウケ ないことは、執筆していたときに、重々承知していました。ウィトゲンシュタイン 氏の ことば を借用すれば、「本書は、ここに表わされた思想──少なくとも、それと類似の思想──をすでに自身で一度は考えたことのある読者だけに理解されるであろう。──それゆえ、本書は教科書と異なる。──もし理解をもって読む一人の読者に満足を与えたなら、それで本書の目的は果たされたことになろう(参考 2)」 という性質の書物です。数学基礎論の専門書を読むための 「梯子」 的役割を担っているとは云っても、「ミーハー 本」 でないことは確かです (笑)。「はしがき」 「第 1章」 および 「第 12章 (最終章)」 を読んでいただければ、私の思い──宣長が述べた胸中──を察していただけると思います。
私が 「いざない」 で示したかった点は、「飽くなき探求心、徹底した正確性を追究する意志」 でした。だから、私は、宣長の ことば に共感するのです。システム 設計のなかで、いわゆる 「分析段階」 と云われている仕事では、「分析」 を ごまかしている場合が多い (怒)。それを厳しく みつめてみることを私は訴えたかったのです。
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、太田善麿 訳。
(参考 1)
「論理哲学論考」、法政大学出版局、坂井秀寿 訳。
(2010年 8月 1日)