本居宣長は、「玉くしげ」 のなかで、以下の文を綴っています。
(参考)
ことに近ごろの世の中の風潮では、もっぱら目の前の損得の
ことばかりをはかって、根本のところに思いをめぐらしていう
意見などはこれを今日の用にたたぬまわり遠いことだとして、
相手にもしないのがふつうとなっているが、これは非常にまち
がった生き方である。今日眼前の利益を思うならば、まずその
根本から正しくしてかからねばならぬ。その本を正しくしなけ
れば、どんなに思いはかりをめぐらして、よい考えを立てて
みたところで、諺にも言っている 「飯上の蠅 (はえ) を追う」
というのと同じで、結果を得ることなくすべてむだな営みと
なって、時にはついに大害をひきおこすことさえもあるもので
ある。それであるから、さしあたりは回り遠く世間ばなれして
いるようには見えても、とにかく根本のところに目をつけて
すべての事についての考えを立てるべきである。
上に引用した文を 「ご意見」 として聴いているかぎりにおいて、反対するひとは、まず、いないのではないでしょうか。ただ、実際の生活 (あるいは、仕事) のなかで、どれだけの人たちが、それを実践してきたか。他人 (ひと) の意見を聴いて納得しても実践しなければ、個性の表現にはならないでしょう──言い換えれば、じぶんの思想にはならないでしょう。他人の意見を聞いて どうこうと批評するくらいの小悧巧さなら私にもあるけれど、その批評が個性的であるためには、私は私の道 (生活) を歩いてきた実感を基底にしていなければならないでしょうね。というのは、われわれは、書物に下線を引いて人生を知るのではなくて、じぶんが実践して、事態の可能性の豊富さに翻弄されて、書物で読んで得た知識というのが単なる ヒント にすぎず、その ヒント を起点にして じぶんで工夫しながら事態に対応しなければならないというのが現実の生活に他ならないから。そして、そういう実践のなかで じぶんに忠実だったひと──言い換えれば、じぶんで真摯に考えて行動したひと──が個性的な仕事・生活を実現するはずです。そうであれば、「目の前の損得のことばかりをはかって」 も、算盤 (ソロバン) が上手だというほかに、じぶんの個性にはならないでしょう。
「考える」 行為とは、そもそも、「根本のところを思いめぐらす」 ことのはずです。そして、エンジニア であるならば、技術を効果的・効率的に適用することを考えるはずです。技術を効果的・効率的に使うためには、技術を根本的に知っていなければならないし、技術を適用する対象たる現実的事態を しっかりと把握していなければならないでしょう。「具体的な (大雑把な?) 技術」 を示して 「実践的だ」 と名打った 「わかりやすい」 ミーハー 本を読んで、りっぱな仕事ができるかというと、そんなことは絶対にない──なぜなら、現実的事態には、どれをとっても同じ状態が絶対にないから。「わかりやすい」 ミーハー 本を読んで、じぶんでは工夫しないで、「目の前の損得のことばかりはかって」 いるという態は、じぶんの怯懦 (きょうだ)・怠惰 (たいだ) の言い訳にすぎないのではないか。挙げ句に、簡単な手続きに従えば、期待していた物が簡単に与えられるというふうに錯覚しているのではないか。
幸いなことに、現実的事態は、そういう錯覚を本気にできるほどの ヤワ (柔) な性質じゃない──われわれの ちから に応じた質・量しか (あるいは、それ以下しか) 返さない [ よほどの偶然が重ならないかぎり、じぶんの ちから を超えた応報は起こらないでしょうね ]。「一升ますに二升は入らぬ」 ということも簡単な算術でしょう。
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、太田善麿 訳。
(2010年 8月 8日)