本居宣長は、「玉くしげ」 のなかで、以下の文を綴っています。
(参考)
議論のうえの理窟はしごくもっともに聞えても、実際にこれを
政治に用いるとなると思いのほかによくないことも多く、かえって
害があることさえある。いったいに何事も、実際上の事になる
と、その議論・理窟のようにはいかないものである。
上に引用した文は、「政治」 を論じた文脈のなかで綴られているのですが、文中で 「いったいに何事も」 と綴られているように、「政治」 のほかの文脈でも適用できる (と思われる──少なくとも、宣長は そう思っている──) 言説でしょうね。
私 (佐藤正美) は、いまさら、ここで、「理論と実践」 というような・言い古されてきた話題 (same old theme) を論じようなどと更々思ってはいないのであって、われわれは 「その議論・理窟のようにはいかない」 ということを覚えて、いったい、間違わない実感として覚 (さと) っているかと問いたいのです。
理論家 (theoritician, theorist) が提示した説に対して、「そんなのは理窟にすぎない」 と言下に否認して 「実務家 (practitioner)」 を称している連中が、「パターン」 を好き好んでいるのは洒落にもならないでしょう。
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、太田善麿 訳。
(2010年 8月16日)