本居宣長は、「玉くしげ」 のなかで、以下の文を綴っています。
(参考)
その事情を考えると、まず前の人のたてた考えについて、その
とおり行なってやってみると、案外具合が悪い。これはどうした
ことだと思っているところへ、のちの人が出てきて、前の人の
考えの誤っていることを指摘すると、なるほどと思いあたるもの
だから、またそお考えを立ててやってみると、それもまた具合
がよくない。そこでまたそれが間違っていることをしきりい論じ
て、さらに新しい考えを作り出してみるというあんばいで、いつ
までたってもこんな状態で、むやみやたらに変えていくうちに、
よいことは起こってこないで、かえって変える度ごとに害ばかり
増える。
さて、宣長は、「玉くしげ」 のなかで 「学問」 という語を使っているのですが、その 「学問」 が適用される領域として、上に引用した文は、「政治 (国政)」 に関する意見の一部です。したがって、現代の数学のような 「学問」 を想像して宣長の意見を批評してはいけないでしょうね。宣長の云う 「学問」 は、文化科学での 「学問」 です。
小林秀雄氏は、「批評家失格 T」 のなかで、以下の文を綴っています。
数学者に、頭のいい悪いはあろう、だが仕事の上で嘘をつく
数学者なんてものは一人もいないはずである。ところが文化
科学になると、いや芸術学というものは、頭がよくないという事
は、嘘をつくと同じ意味を持つ。換言すれば、みんなが不誠実
を否応なく強いられる。この世界では、仕事の上の仮定は、
生活上の仮定のように頼りがない。
文化科学では──特に、「精神」 を対象にする学では──、「仕事の上の仮定は、生活上の仮定のように頼りがない」。その 「頼りなさ」 の悪い例として、宣長は、「『説』 を取っ替え引っ替えする愚かさ」 を指摘しています。文化科学の説は、「前提」 の立てかた──どのような前提を立てるか、ということ──が とても難しい。そして、いくつかの前提を立てて、推論を組んでも、その推論を現実的事態に適用すれば、かならず、「例外 (あるいは、論がそぐわない事態)」 が出てきます。その 「具合の悪さ」 が気になって、それに対処している他の説に変えてみる──しかし、それに対処している説というのは、当然ながら、当初の説とは前提がちがう。そして、また、新たに導入した説には、他の不具合が生じる、、、そして、また、他の説に変えてみる、というふうに、説を取っ替え引っ替えしても、事態が良いほうに向かう訳じゃない──宣長の言では、「かえって変える度ごとに害ばかり増える」 (場当たりで考えて変えるから、変えるごとに悪くなると謂いたいのでしょう)──と。
もし、それぞれの説が、矛盾を内包しないで、妥当な前提の上で構成された それなりに整った体系であれば、それらのなかから どの説を使おうが、現実的事態に対して それなりに ききめ があるのだから、或る説を使って 「具合の悪い」 ことが生じれば、その点を現実的事態との関係のなかで 「工夫」 するのが正当な やりかた でしょう。「例外のない法則はない」 という言は、法則を作った天才も謂うし ユーザ でも謂うことができる。そして、ユーザ のほうでは、その言が腹に入っていなければ、説の陳列窓を観て、右往左往するのでしょうね。でも、いっぽうで、多くの説を知っているので、じぶんは悧巧だという惚けた顔をしている (苦笑)。現実的事態を起点 (原像) にして説が作られたという当たり前のことを外さなければ宜しい。そうだとしたら、ひとつの現実的事態に対して、数々な説があるということは、それらの説が置いた それぞれの 「前提 (目的・制約)」 は ちがうということでしょう──勿論、それらが ちゃんとした理論 (公理系) であれば。
そして、説に 「前提 (目的・制約)」 があるかぎりにおいて、説が到達できない範囲で起こる事態は、説の瑕疵ではないのであって、説を使うひとの 「工夫」 で対応しなければならない、というのは当然のことでしょう。「説」 が もし そのまま適用できるのであれば、「実務家 (practitioner)」 というのは、様々な説の適用を単に 「場合分け」 する オートマトン と同義になってしまうでしょう (笑)。
なお、「前提」 のちがいに関する注意は、本 ホームページ 340ページ を参照してください。
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、太田善麿 訳。
(2010年 8月23日)