本居宣長は、「玉くしげ」 のなかで、以下の文を綴っています。
(参考)
が、今の世において書籍を読むほどの人のものの見方・
考え方というものは、とくに唐土風のまねををするという
わけでなくても、しぜんとみな唐土風の行き方になじんで
いるわけで、その唐土風の見方・考え方からはずれたこと
は耳に容易には入らぬようになっている。それで、はじめ
からその大本の趣旨を述べるというと、それがひどく現実
ばなれしたことのように感じられ、国の政治にはなんの役
にもたたぬむだな事柄のように聞こえようかとも案じられ、
この書を見る人がすぐさま読む気を失って終りまで読み
続けなさらぬかも知れぬという心配があるものだから、
その点はしばらく保留して後にまわし、別巻に説くことに
して、本書では手近かな事柄だけを述べるのである。
その別巻は、先年述作したところであるが、それを今度
この書に添えるわけである。
引用文のなかで言及されている 「別巻」 に関して、「反 コンピュータ 的断章」 (2010年 8月 1日付) で説明しました。一般には、「別巻」 (後の引用のために、S と略称) のほうを 「玉くしげ」 と呼んで、本 エッセー で引用している著作のほうは、「秘本 玉くしげ」 (後の引用のために、A) と云われています──というのは、S は、寛政元年 (1789年) 11月の奥付で刊行されましたが、A のほうは宣長が出版を憚ったので、没後嘉永四年 (1851年) 5月に、「秘本 玉くしげ」 という書名で佐久良東雄が出版しました [ ただし、自筆本では、「玉くしげ」 と綴られています ]。
さて、引用文で述べられている意見は、「唐土風」 を 「欧米風」 というふうに言い換えたら、現代でも、実感できる意見ではないかしら──すなわち、「が、今の世において書籍を読むほどの人のものの見方・考え方というものは、とくに 『欧米風』 のまねををするというわけでなくても、しぜんとみな 『欧米風』 の行き方になじんでいるわけで」 と。
ただ、その文に続く以下の文では、宣長の断言は飛躍している (illogical) と私は思います──すなわち、「その唐土風の見方・考え方からはずれたことは耳に容易には入らぬようになっている」 という判断は、いくらなんでも、急勝 (せっかち) でしょう。というのは、書物を読んで 「考える」 ひとであれば、そういう耳栓をしないはずだから。そういう耳栓をしている連中は、元々、或る主義を固持していて、その主義にとって都合のいい書物しか読まない族 (やから) でしょう。ただ、困ったことに──悲しいことに──そういう族は、「知的産業」 と云われている コンピュータ 業界に、わんさと棲息しています (苦笑)。
「それで、はじめからその大本の趣旨を述べるというと、それがひどく現実ばなれしたことのように感じられ、国の政治──この語は、「実務」 と言い換えてもいいでしょうが──にはなんの役にもたたぬむだな事柄のように聞こえようか」 と。じぶんにとって都合の悪い論証──じぶんの知らない大本の趣旨を詳細に証明した意見──を聴いたら、そういう論証を述べるひとに対して 「学者だね」 (現実ばなれしたこと) というふうに言い放てば、「実務家」 を自称して安住できるので、じぶんの考えかたのほうが賢いと思い込んでいる 「盆暗 (ぼんくら)」 な システム・エンジニア を私は わんさと観てきました (苦笑)。「実務家」 とは、──特に、エンジニアリング では──「正当な理論」 の 「実地適用」 を工夫するのが役割であるはずなのだが、、、我流を実践的技術と思い違いしているのではないか。「とかく臭気 (くさみ) の付 (つく) 族 (わごぜ) に真物 (まことのもの) はなしと知るべし」──「臭気の付 族」 とういうのは、半可通 [ 十分通じていない様、未熟なくせに通人らしくふるまう様 ] ということ。
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、太田善麿 訳。
(2010年 9月16日)