本居宣長は、「玉くしげ」 のなかで、以下の文を綴っています。
(参考)
まず御身分が非常に重々しいので、それに関連しておこって
くるすべてのことを一通りでなく重々しくとり扱うものであるから、
軍備・国政のほかにその御身分を重々しくするためのいろいろ
の役人などが多くいて、一人でもすむようなことにも上役から
下役へと何人もの手を経るので人数ばかり多くかかり、大した
ことでもない事柄に人手を多く使い、次第に事がらも繁多に
なり費用も多くなり、何一つするのにもいちいち支出なしで
すむというわけにはいかない。また幾階級もの役人が多けれ
ば、横にぬけてはっきりしない支出も多くなろう。
飲食・衣服などのごときものも、上の人が用いられるところ
は、どんなによいものばかりを求めたとしても、それだけのこと
ならたかの知れたことなのであるが、それを下の者があまり
重々しくとり扱うものだから、あれこれの担当者なども多くし
て、ただむやみに念入りにするのがよいというような習慣に
なっている。年ごと月ごとにあらゆる事が重々しくなる一方で、
役にもたたぬことをむしょうと念入りにやるものだから、こと
ごとに出費がひどくかさむことになるのである。
すべての事をあまりに大切に重々しくする時は、ただ無益
のついえや無用の手数ばかり増し、かえってその本意の実を
失い表面だけのことになって、そまつにとり扱うのよりも結局
はずっと劣ることも多いし、またかえって手順が非常につかえ
妨げられることも多い。たとえば直接に御本人に通してもよい
事柄まで、ここの役人の手を通し、あそこの役所へうかがいを
立てるなど、あれやこれやいろいろするものだから、無益の
人手間がかかり、紙筆の無駄使いなどだけがあって、かえって
急ぎの御用の処理などはとどこおって、なんらの益はないの
である。
上に引用した文が綴られた年代は、天明七年 (1787) です。現代から逆算して、220年以上も過去の記述です。でも、これらの文を読むと、現代の政治制度 (の構成のしかた) と酷似していることに びっくりすると同時に、200年以上の時の流れのなかで、われわれは、さほど進歩した訳じゃないことを思い知らされますね (苦笑)。
しかも、これは政治に限った話ではなくて、コンピュータ・テクノロジー の領域でも観られる現象で、われわれシステム・エンジニア は、政治家・役人を蔑むことはできないでしょう──(金融庁の) 「内部統制」 システム を導入した際の 「やりすぎ」 を思い起こしてみればいい。そして、「内部統制」 システム の本来の意義を把握できなかった システム・エンジニア が、もし、政治制度上の徒費を糾弾するというのであれば、「目くそ鼻くそを笑う」 の態でしょうね。
さて、200年以上もの時のなかで、「制度のありかた」 を変えることができなかったというのは、そうすることが──変えないということが──われわれの性質にとって 「ムダ な労力」 を使わないということなのかしら。というのは、たとえ、「制度」 を変えても、ふたたび、雑草が生い茂ることがわかっているから、と。「人数分だけの仕事が増える」 という現象は、なんとかの法則として知られているけれど、そんなことは、宣長が綴っているように 200年以上も以前にも認識されていたことでしょう。マンネリ も嫌だけど変革も嫌、というのが人性かもしれないですね──少々の変化があればいい、と。その変化がつねに制度の外 (そと) で起こっている事態と対応していればいいのだけれど、制度のなかで水膨れしている人数が じぶんたちのために作為した事務であれば──しかも、その余計な作為が制度のいちぶとして組み込まれてしまうと──、それぞれの人は じぶんがやるべき仕事を持っているかぎりにおいて、じぶんの仕事が制度のなかで ムダ であると指弾されたら、かならず反駁するでしょう。そして、反駁するには、「ムダ の定義」 を示すように迫るでしょう──というのは、反駁するひとには わかっているはずです、「ムダ」 を定義することが いかに難しいことか、と。そして、「定義」 が明示されなければ、「ムダ」 は信念の争点であって、ロジック の争点ではないでしょうね。しかも、「制度」 そのものが、「生産性の向上」 という目的を立てて自足できる、というのが 「制度」 の パラドックス でしょうね──「われわれは、昨年度に較べて、生産性を 20% 向上した」 と。
現実的事態においては、ひとつの事態のみが独立して存在する訳じゃない。ひとつの事態が独立して存在するように見えるのは、そういうふうに観ているからであって、その事態は、その事態を包摂する もっと広大な事態の いちぶでしかないでしょう。そのかぎりにおいて、ひとつの 「制度」 は、その 「制度」 のみを対象にして是非を問うことは無意味であって、その 「制度」 を包摂する ヨリ大きな事態のなかで考えるべきでしょうね。そして、ひとつの事態のなかで、或る 「制度」 が他の 「制度」 に較べて effective(*) であるときに、ヨリ effective な 「制度」 の性質のことを efficient であると云います。つまり、「ムダ」 は、effective を前提にした efficient な性質 (efficient estimator) と対比して考えるべき性質であって、更々、「前年比」 や 「コスト」 を前提にした概念ではないということ。だから、「ムダ」 をしかじかと指さす (枚挙する) のが難しい。しかも、「量」 のほかに 「質」 も考慮しなければならない。
数学的には 「最小全域木」 「最短道」 を計算することはできるけれど、ひとつの 「制度」 (複数の ジョブ で構成された ひとつの プロセス) のなかで 「ムダ」 を独立項目として計量することはできないでしょう。だから、「ムダ」 が 「ムダ」 でないと言い訳できる理由を相応に考えることもできる、ということ。そうであれば、「念入りな」 施しが 「むやみ (too much)」 であるというふうに判断できるには、われわれは、すでに、他の effective な やりかた を知っていなければならない、ということです。あるいは、「このくらいで良いだろう」 という識値をもっていなければならない、ということです。しかも、前述したように、そこには 「質」 に対する満足度も考慮しなければならない。(金融庁の) 「内部統制」 システム の基準書には、それが ちゃんと示されていました── direct reporting を採用しないで、「連結」 ベース の 「内部統制報告書」 に対する監査である、と。それを無視したのは、いったい、だれなのか。そして、そのときに犯した間違いを、再び、IFRS 導入でもやりそうな雲行きですね。
(*) having the power to bring about the result that is intended or desired, as effective measure to cure unemployment
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、太田善麿 訳。
(2010年 9月23日)