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A cuckoo thinks herself a fine bird.

 

 本居宣長は、「玉くしげ」 のなかで、以下の文を綴っています。(参考)

     (略) 世間なみからはずれるとかえって変物 (へんぶつ) あつか
     いされ、人から嫌われたりするので、しかたなしにしぜんと世間
     なみにしていくことが多い。(略)

     (略) 世間の進む方向にひきずられて、またいつのまにか規制が
     ゆるんできて、またもとにもどってしまうというようなことで、
     (略)

 以上に引用した文は、「贅沢と質素」 について宣長が述べた意見から いちぶ を抜き書きしました。この引用文を、私の周りで起こっている事態に対して流用するなら、「多数派と少数派」 とか 「衆愚と孤高」 とか 「世間 (あるいは、組織) と個性」 とか 「全称と単称 (あるいは、特称)」 など、色々な事態に対して借用できる意見ですね。

 「世間 (じぶん以外の世の人々)」 という概念は、きわめて曖昧な──すなわち、範囲を限ることができないので、その集合の構成員を枚挙できない──概念です。しかも、たとえ、範囲を限ったとしても、その集合の構成員の 「性質」 は均質ではないので、どのような 「性質」 を集合的性質とするかは難しい──宣長の考えた集合は [ 数学的には 「集合」 にならないので、人々の曖昧な集まりですが ]、「贅沢をする人々」 と そうでない人々です。そして、そうでない人々は、「変物」 と見做 (みな) されて、「世間」 (ここでは、「贅沢をする人々」 のことでしょうね) から嫌われ、しかたなしに 「世間」 なみに歩調をあわせることが多い、とのこと。

 しかし、「世間」 という得たいの知れない概念に色目を使って、魅力ある仕事をした人など誰もいないでしょう。或る事態のなかに潜む問題点を定立して、かつ、新たな ソリューション を探究するというような仕事は、誰にでもわかるような手続き (道しるべ) のある歩道じゃない。そういう仕事に取り組むためには、問題点に立ち向かっている じぶんを正直に語るほかに道はないでしょう。誰にでもわかるような手続き (道しるべ) のある歩道の境を越なければ、だれも歩いたことのない道を了 (さと) り難い──すでに舗装された道を歩いていては、魅力のある仕事ができないし、道を逸れたら [ 越えたら ]、「変物」 にならざるを得ないのではないかしら。したがって、そういう仕事の要件は、多数の人々が いっしょに仕事をするために同意された規約──あるいは、社会生活を営むうえで、社会が混乱しないように設けられている規約──と異 (ちが) う。そして、じぶんの仕事 (および、生活) に対して真摯に取り組んでいるひとを社会は 「変物」 と見做しても軽蔑などしない──「変物」 とは云いながらも、「愛すべき」 人物と見做すでしょう。

 「変物」 は、前述したように、もし、本物であれば、社会で嫌われることはないでしょうね。嫌われるのは、ニセモノ でしょう。すなわち、ニセモノ は、「個性」 を示そうとしても、その実力がないので──実力があれば、実力さえ示していれば、それがそのまま 「個性」 になるのでしょうが──、他人との 「性質」 の比較において、相違点を示そうとしているにすぎない。

 みずからの身証 (行為) のほかに 「個性」 が現われる場所はないはずです。しかし、すでに手続きが定立されていて 「じぶんの力 (ちから) を証明する」 機会が与えられていない所では、「じぶんを証明する」 行為をともなわないままに自意識が肥大化して、「他人とは ちがう」 (あるいは、他人とはちがう存在でいたい) という対比意識が強ければ、じぶんの行為で証明しなければならない性質を、他人との比較のなかで確認しようとするのかもしれない。そういう ボンクラ な (小悧巧な?) ヤツ らが、他人に関して人物評を言い散らして、じぶんは賢いと思い込んでいる。勿論、それは 「個性」 ではない──「世間」 は、それを見破ることに聡 (さと) い。「憎き物 物毎 (ものごと) に、利根 (りこん) さうに吐 (ぬ) かす奴 (やつ) に、久 (ひさ) しうて出会 (あ) ふた。『ちよん/\のちよん』 と囀 (さへづ) る男」 と。(「けしすみ」、[ 「近世色道論」 (野間光辰 編、日本思想大系、岩波書店) 収録 ]。

 「変物」 の擬 (まが) い物とは、「扨 (さて) は己 (おれ) が矛先 (ほこさき) には打太刀 (うちだち) する者 (もの) なき」 と、壱人して印可 (いんか) を許 (ゆる) し、(略) と思ふが暗方 (あほふ) の二段目 (「色道小鏡」、 [ 「近世色道論」 (野間光辰 編、日本思想大系、岩波書店) 収録 ])。遊郭では、そういう ヤツ らを半可通として軽蔑していたとのこと。TM を作って [ 一事を実現したと思い込んで ]、私は、この半可通 (阿房) に陥っているのではないか、、、じぶんに対して嫌悪感を烈しく覚えます。本物の 「変物」 になれるほどの実力がほしい、、、齢 (よわい) 57 にしての歎きです。技術が社会的機能の一つであるのなら、社会 (コンピュータ・ユーザ) に役立つ技術を作って──新しい技術を作るほどの実力は私にはないので [ 「変物」 になるほどの実力がないので ]、すでに使われてきた技術の改良を考えて──社会に貢献したい、それが私の希 (ねが) いです。そして、TM が そうであってほしい。

 
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、太田善麿 訳。

 
 (2010年10月 8日)

 

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