前回 (「反 コンピュータ 的断章」 2010年10月16日付 エッセー)、私は、「TM の普及」 に関して、世間の土壌を変えることが いかに難しいかという愚痴を綴りましたが、本居宣長が 「玉くしげ」 のなかで、世間の慣習を変えることの難しさについて綴っているので
(参考)──私の気持ちを まさに代辯してくれているので──、以下に引用します。
とかく人間というものは、長いあいだやりなれてきた事は、
少し都合の悪い事であっても、それをうけ入れて、どうの
こうの言わずにいるものである。益のあることであっても、
今までと違った新しい事は、何となくやっかいなことだと思う
のが普通であるから、今までずっとやってきた事は、少しは
悪いところのあることでも、たいていの事はそのままいして
おいたほうがよいのであり、旧をあらためて新しくすること
は、たいていはまあ、しないでおいた方がよいのである。
すべて世の中の事は、どんな事でも、よいことも悪いこと
も、その世相の動きによって現われてくるもので、どんな
に悪を除こうとし、どんなに善を実現しようとしても、最後の
ところは人力ではどうしようもないものであるから、むりに
急いでことを行なおうとしてはならない。ただ日常の態度
として、よい事はそれがくずれないように、あとを断たない
ように配慮し、悪い事は少しずつでも消えてゆくように、
大きくならないようにと心がけ、そしてまた新しく始めよう
する事については、よくよく考えて、その上に他人の考え
方も聞くし他国の例なども聞き合わせるようにし、人々が
それに納得してついてくるかどうかをよく検討してやるよう
にすべきである。
すべて新しくひらく体制というものは、これを始めて国の
ため人のためにもまことに結果がよくて、いつまでもそれ
が用い行なわれるというような場合には、後の世にかけて
の功績にもなることである。けれども、意外に人もついて
来ず、よい効果もあらわれず、時には思いもかけぬ失敗
などもおこって、長く続けることができなくなってそのうちに
やめてしまうようなことになれば、かえって無駄な骨折りが
あるだけで、施政方針が軽薄だというそしりをうけることに
もなるのである。よほど賢い人が考え出して、これはすばら
しく役に立つと思うようなことがあっても、やってみなければ
あてにはならないものであって、思いのほか、はじめ考え
たとおりにはゆかないものであるから、とにかく、だいたい
それですんでしまうことなら、もとからやっているところに
従っておくのが一番よいのである。
私が 「モデル を使う」 ユーザ であれば、宣長の言──「だいたいそれですんでしまうことなら、もとからやっているところに従っておくのが一番よいのである」 という意見──を納得するでしょうね。TM (T字形 ER手法の改良版) などという得体の知れぬ技術を導入することは憚 (はばか) るでしょうね (笑)。それはそれで堅実な判断だと思います。というのは、システム を作る技術では、一般の商品に較べて、技術そのもの の 「product differentiation (特化)」 が強みとして考えられてはいないので。
エンジニアリング (システム 作り) では我物化を排斥しているはずなのですが──私は、「属人性」 という ことば が嫌いなので、「我物化」 という ことば を使いますが──、技術そのものが均一化されているいっぽうで、その技術を使う エンジニア の腕に頼ることが、すなわち エンジニア の感性的計量 (センス、我物化) に頼ることが、疑われていない。私も エンジニア なので、エンジニア がじぶんの ちから に信頼を置いて存分に駆使することを やりがい の一つであると思っているのですが、一人の 「英雄 (天才)」 の エンジニア に頼った システム などは、そもそも [ 文字通りの意味で ]、システム の性質に反するでしょうし、一人の エンジニア が システム の隅々まで作れるはずもない。「システム」 とか 「技術」 は、その性質として、「共有できる」 機能です。その 「共有できる」 機能として使われてきた技術を 「あらためて新しくする」 ことは、「多数の」 エンジニア の同意を獲なければならないので [ 組織の総体としての意識を変えて改めて新しい意識を共有しなければならないので ]、難しい──新しい技術が従来の技術に較べて すぐれているとしても、従来の技術が もう役に立たないと実感されない限り、たぶん、技術を入れ替えないでしょう。それ [ 技術の入れ替え ] は技術の論点ではなくて意識の争点になってしまう──だから、難しい。
かつての [ TM として改良される以前の ] T字形 ER手法について、世間の認知として──私が聞き及んでいる世間的認知の典型例ですが──「すべての entity のあいだに関連表を作るやつでしょう」 というふうに云われているそうです (苦笑)。この風説を 「でたらめ」 な評であるというふうに怒るつもりは私には更々ない──ただ、私は苦笑するしかない。というのは、「様々な意匠」 が現れては消えてゆく世間では、一つ一つの説に関して、それぞれの原典を読んで正確に把握していることは、およそ、期待できないので。技術を作った本人にしてみれば、その技術を正確に把握してほしいと思うのは当然ですが、世間には、あまたの技術があって、それらを一つ一つ丁寧に吟味することなどは──その技術を導入しようと検討していない限りは──やらないでしょう [ マーケット に出回っている技術を一つ一つ詳細に検討する暇などないでしょう ]。じぶんの作った技術は すぐれているので公にすれば──マスコミ や著作や セミナー で説明すれば──世間は注目してくれるだろうと思っていても、世間は、それほど (あるいは、ほとんど) 注目しない。私は それを知らないほどの阿房ではない。だからこそ、私は世間に対して気長に [ 長期戦を覚悟して ] TM を訴えてきました。
TM は、現実的事態を有向 グラフ として記述する 「抽象 データ 型」 モデル です──離散数学の技術を 事業解析・データ 設計の技術として応用しただけであって、私の独自な技術など皆目ない。だから、TM を私一代の 「芸」 として見做 (みな) されたくない──「マサミ さんの TM」 と云われることを私は一番に嫌 (きら) っています。TM を コンピュータ・サイエンス の技術体系の一つとして普及したい。しかしながら、コンピュータ・サイエンス という語が意識されていない 「事業分析」 では──事業の モデル 化を考えるのであれば、当然ながら、コンピュータ・サイエンス を意識していなければならないはずなのですが──、TM を認知してもらうのは難しいのかもしれない。
「TM は敷居が高い」 と云われていることも私は耳にしていますが、宜 (むべ) なるかなと思います (笑)。私は気取っている訳じゃないし、離散数学の知識のないひとを見下している訳でもない──私の数学知識などは数学の専門家から観れば基本知識にすぎない。私が数学を使って TM を検証している理由は、ひとえに、TM のなかから私の臭いを消し去るためです。言い換えれば、「マサミ さんの TM」 という言いかたをされないようにするためです。そして、TM は、離散数学の技術を応用しただけであって、私の独自性など皆目ない──もし、私の独自性があるとすれば、離散数学の技術を TM の技術として生硬に流用しなかった、という点くらいでしょうね。そして、TM の究極の考えかたは、「左 ナンバー・コード、右 日付」 という呪文にできるくらい単純です──「左 ナンバー・コード」 は 「集合」 (セット) の作りかたを示し、「右 日付」 は 「関係」 の作りかたを示しています。もし、TM の技術だけを観て、TM が根柢にしている数学的技術を知らなければ、「こんなのが技術ですか」 と侮られるほどに TM は単純な技術です──実際、かつて [ 10年くらい以前の話ですが ]、20歳代の女性の エンジニア が そういうふうに非難していました (苦笑)。「敷居が高い」 という言いかたは、「使いたくない」 という意味であって、TM を吟味して謂っている訳じゃないでしょうね。
従来の やりかた (DFD、ER、UML など) に対して疑問を抱かないひとは TM を使わないでしょう。TM を使うひとは 「最初から説得されていた」 ひとです──すなわち、従来の やりかた に対して 聊 (いささ) かでも疑問を抱いていたひとです。私は待っています、ムダ と知りつつ、世間の土壌を知れば知るほど、待っています。そういう態度が、「私が TM を普及しない」 と小言を謂われる (非難される ?) 理由なのかもしれない。しかし、待っている私が どれほどの悲しみで世間を観ているかをわかってもらえないのであれば、「普及しなさい」 と小言を謂われても、しかたがない。
君看雙眼色 不語似無憂 (良寛の詩)
[ 君看よや 雙眼の色 語らざるは憂なきことをしめす ]
私は センチメンタル な気持ちで良寛の詩を引用している訳じゃない。私は、落ち着いて世間を観ています。世間に訴えれば世間を うごかすことができるなどという己惚れを聊かも抱いていない。拙著 「論考」 の 「あとがき」 で引用した文を以下に再録しておきます。
何があるべきであり、何があるべきでないか、ということに
対する感覚は、樹のように成長し死んでゆくもので、どのような
肥料を施してもこれを変えることはできない。個人にできること
は、せいぜい清潔な規範を示し、シニックな人の多い社会に
おいて倫理的信念をまじめに主張する勇気をもつことくらいだ。
ぼくは、ずっと昔から、自分の生活をそんな風に送りたいと
努力し、少しずつ成功してきたと思う。(アインシュタイン)
TM を広報する際に、野球に喩えるならば、五打席中 四打席三振すれば、観衆から 「下手くそ !」 と野次られることくらいを私は覚悟しています (笑)。それでも、私は、ユーザ に役立つことを しつこく考えています。
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、太田善麿 訳。
(2010年10月23日)