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From words to deeds is a great space.

 

 本居宣長は、「玉くしげ」 のなかで、以下の文を綴っています。(参考)

     (略) 下層の民のようすを知ろうとお思いになっても、それ
     をくわしくお知りになる手段・方法がない。
      殿様の御前へ出る人々にしても、ただ恐れ慎しむだけで、
     容易にこまごまとした事をお話し申しあげるようなことは
     できず、ざっとひととおり申しあげることでも、ただあたり
     さわりがあってはならないと思い、御機嫌をそこなうような
     ことがありはしまいかと気づかうものだから、ただ粗相が
     ないように落度がないようにだけ申しあげて、下の事はただ
     適当に、領民がみなありがたがっているというようにだけ
     伝えて、少しも悪いことを申しあげる者は居やしない。これ
     はその人が申しあげないのが悪いのではない。ただ上が
     重々しくて、申しあげられないようなならわしになって
     いるのが悪いのである。同輩どうしの間でさえ、その人の
     悪い点などは少しでも言いにくいものなのだから、まして
     主君に対しては、そのはずである。(略)

     (略) ありのままを直接にお伝えするなどということは、
     とてもできないわけである。下役から上役へと段階を通して
     申しあげるやり方は、その途中でしだいに内容が違っていく
     ものであるから、下々 (しもじも) の民のありさまなどは、
     とかく実状のまま上に伝わることはむずかしい。

      学問をなされば、書物の上で、たいてい下々の役人の事や
     民間の事も、基礎になるところは知り得るのであるが、当今
     のこまかな具体的事情は、なかなか書物を読んだぐらいの
     ことでわかるものではない。下々には、上のお思いになって
     もみないような事柄が、たくさんあるのである。だから、
     書物から学んだひととおりの解釈でもって処置をなさると、
     お考えになっている主旨とは違ってくることが多かろう。(略)

     (略) また下から願い出る事柄なども、とかく途中でとまって
     しまって、上へは通って行かぬことが多い。これらはみな、
     上があまりに重々しく、へだたりがあるためにおこる欠陥で
     ある。小さな大名などでは、それほどでもないという場合も
     あろうが、大きな大名ほど、この種の欠陥は多いものである。

      事の大小種類を問わず、よい考えがある場合には、たとい
     身分の軽い人であっても、少しも遠慮することなく申し出る
     というふうにしたいものである。しかしながら、全体にただ
     上の事を重々しくする癖がついていて、なかなか身分の軽い
     人などは、御政務関係の事などには意見をさしはさむことが
     できないようなならわしになっており、もしかりに身分に
     過ぎたことなどを申し出れば、上を軽んじるなどと大げさ
     に言って、かえって咎められる。(略)

 上に引用した文を 「企業」 制度に翻訳してみれば、「『組織』 のなかの コミュニケーション の ありかた」 について論じていると考えることもできるでしょうが、私は、今更、ここで、言い古されてきた [ the same old thing ] 「組織上の コミュニケーション」 について云々するつもりはないです──220年も以前から、すでに述べられてきたことなのだから。経営学の書物 (組織論、コミュニケーション 論) を読んでいて──宣長が すでに述べていることを今風に (学問と称して ?) 言い換えただけの記述を読んで──「白々しい こと (口真似)」 を言っているなあ [ あるいは、多くの人たちが かつて謂ってきたことを他人 (ひと) の書物から借りてきているくせに、いまさら、観てきたように言っているなあ ] と感じて厭 (あ) きることが多い。あるいは、多数の企業を調べた実態調査で得た 「実証的」 結論であると糊塗 (こと) されたら私は苦笑するしかない。「ほかの企業もそうですョ」 と云われて喜ぶような トップマネジメント はいないでしょうね。もし、じぶんの組織のなかで コミュニケーション の トラブル が起こっているのであれば、他の企業でも同じことが起こっているなどと云われても慰めにもならないのであって、じぶんの トラブル を じぶんで対応するしかないでしょう。

 「組織上の コミュニケーション」 に限らず、「組織」 について私が奇妙に感じているのは、中学生・高校生でも すでに わかっているような──学校で すでに習得してきたはずの──「生活態度」 を一々 「標語」 にして確認している、という点です──たとえば、「名前は 『さん』 付けで呼びましょう」 とか 「挨拶をしましょう」 とか。こういう わかりきったことを、一人前の職業人の集まりに対して、敢えて メッセージ として伝えて確認しなければならない、という点が 「組織」 の なにがしかの性質を示しているのかもしれないですね。「人間って [ 群衆って ] そんなもんョ」 と言って、知ったか振って話を切ってもいいのですが──というのは、その理由を究明することが私の職責ではないので──、私の念頭を離れない。これは 「組織」 (ひとの集まり) という集合的性質の論点ではないのかもしれない。というのは、社員一人一人に対して向けられた メッセージ なのだから。

 私は、職業柄、数多くの企業に関与して、数多くの人たちと──しかも、初対面の人たちと──いっしょに仕事をしてきました。当然のことですが、誰一人として同じ性質を持ったひとはいなかった。幸い、私がいっしょに仕事した人たちは、仕事をしていて気持ちのいい人たちが多かった。ただ、不快な気持ちを感じさせる人たちもいました──そういう人たちといっしょに仕事をすることになっても、私は、プロフェッショナル として、契約した [ 約束した ] 質の仕事を果たすようにしてきましたが、たぶん、いっしょに仕事をしていて気持ちのいい人たちとやった仕事に較べて、質が無意識の裡に いくぶんか落ちていたかもしれない。

 同じような現象は セミナー においても生じて、聴衆の態度が悪いと──あるいは、聴衆と掛けあいができないと──、講師は セミナー の中身を抑えてしまう──このときは、意識的に抑えることが多い [ 他の講師のことは わからないのですが、少なくとも、私は、そういうふうに たまに陥る ]。いわゆる 「流す」 という態度です。プロフェッショナル としてやってはいけない態度ですが、気持ちに ブレーキ がかかってしまう。そういうふうにならないよう戒めるために、私は、じぶんに対して、「あなたは プロフェッショナル として意見を述べることで報酬を貰っている」 というふうな 「標語 (心得、戒め)」 を ノート に綴って、仕事 (セミナー) に集中できるように奮起しています。そして、前述したように、こんな 「標語 (心得、戒め)」 は、中学生・高校生でも わかることでしょうね。それを私が改めてやっているのは、「組織」 のなかで掲げられている 「標語」 と同じことなのかもしれない、、、。

 
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、太田善麿 訳。

 
 (2010年11月 1日)

 

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