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East, west, home's best.

 

 今回から、英語の quotations を読んで、その quotation を参照項にして私の仕事を照らしてみようと思っています。題材に使う書物は、以下の書物です。

    BLOOMSBURY THEMATIC DICTIONARY OF QUOTATIONS

 この書物の LIST OF SUBJECTS は、absence からはじまっています。ability からはじまっていなくて助かりました。ability からはじまっていると、初回から難しい テーマ と向かいあうことになるので。ちなみに、私が愛用している もう一つの引用句辞典 THE INTERNATIONAL Thesaurus of Quotations (CROWELL) は、ability からはじまっています。私は、引用句辞典を数多く所蔵しているのですが──本 ホームページ の 「読書案内」 を参照下さい──、普段には、これらの 2冊を てもとに置いて愛読しています。

 さて、absence の セクション のなかに記載されている 10篇の quotation のなかで、以下の文が私を惹きました。

    What's the good of a home, if you are never in it?

    George Grossmith (1847-1912) British singer and comedian.
    The Diary of a Nobody, Ch. 1

 この文は、読み手の生活に照らして様々に 「解釈」 できるでしょう──その点が アフォリズム (あるいは、作品のなかから抜き取られた文) を読む面白さでしょうね。

 私が若かった頃 (30歳代) に出張が多かったので、私が もし 30歳代で この文を読んでいたら、文字通りに the good of a home を実感していたでしょうね。今の私 (57歳) は、この文を拡大解釈して、a home を じぶんの専門技術として読み替えています。

 57歳にもなれば、じぶんの専門技術を離れたら、じぶんが feel at home を実感する場所を喪ってしまう。feel at home の意味は、じぶんが慣れ親しんできて自信を感じることのできる状態 (familiar with or accustomed to) です。Idiomatic and Syntactic English Dictionary は、以下の例文を示しています。

    It's difficult to feel at home in a foreign language.
    (i.e. to feel easy and confident when speaking a foreign language.)

 正直に言えば、いままで私は専門技術を捨てようと思ったことが幾度かありました──そのことは、かつて、「反 コンピュータ 的断章」 で綴ったので、ここでは綴るつもりはないのですが、専門技術 [ モデル の規則を作ること ] を追究していた途上で苦しさのあまりに転職しようと思ったことが幾度かありました。しかし、落ち着いて考えてみれば、転職しても、転職先で専門技術がもとめられているでしょう。したがって、転職しても、着ている服を替えたにすぎない。

 home の セクション には、9篇の引用文が収録されています。それらのなかで以下の 2篇が、上述した私の迷いに対する助言になりました。

    Home is home, though it be never so homely.

    John Clarke (fl. 1639) English scholar.
    Paroemiologia Anglo-Latina

 
    A man travels the world over in search of what he needs and
    returns home to find it.

    George Moore (1852-1933) Irish writer and art critic.
    The Brook Kerith, Ch. 11

 "Come home to me!" という表現は、たとえば、妻が 「よろめき」 夫に向かって、「私の胸に戻ってきて」 と叫ぶ嘆願の表現です──「よろめき」 という言葉は、昔 流行 (はや) ったのですが、今では廃語になったかもしれない (笑)。
 八木重吉 氏は、「心よ」 と題した以下の詩を綴っています。

    こころよ
    では いつておいで

    しかし
    また もどつておいでね

    やつぱり
    ここが いいのだに

    こころよ
    では 行つておいで

 
 「専修」 というのは専門性の前提になる行為ですが、二十年も三十年も ひたすら ひとつの職を追究するのは難しい──あるいは、辛い──所為ですね。
 飽きる訳じゃない。どんな仕事でも、職域に関する定めがないかぎり、「無限」──「延長の無限」 と 「切断の無限」──のなかに存在しているのであって、汲み尽くすことはできないでしょう。逆に言えば、「無限」 のなかで立ちすくんで不安を覚える──そして、そのときに、「よろめく」 のかもしれない。

 私は、「よろめかない」 ひとを好きになれない。じぶんの仕事──それを海に喩えてもいい──に真摯に向かって、だだっ広い海を前にして迷わない ひとを好きになれない。大海を泳ぎ渡ってみせるという自信を持つことは称讃に値するのでしょうが、なにかしら、仕事を──仕事の 「無限性」 を──軽んじているような気がします。「無限」 を計量することなどは、ちから に限りのある私たちにできる訳もないでしょう。どうなるかわからないという状態 [ 可能性 ] のなかでわれわれは、なんらかの推測を抱いて、選んだ向きに歩みを進めるしかないでしょう。そして、二十年・三十年も歩いてくれば、スタート 地点に もう戻ることはできないでしょうね。したがって、じぶんの専門技術を喪ったら、私は feel at home を実感する場所を喪ってしまう。しかし、もし、その場所が、じぶんの home ではないと疑いを抱いたら、、、。以前にも 「反文芸的断章」 のなかで綴りましたが、「戯れに恋はすまじ」。

 
 (2010年12月 1日)

 

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