Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations の セクション accusation のなかで、以下の文が私を惹きました。
Never make a defence or apology before you be accused.
Charles T (1600-49) King of England.
Letter to Lord Wentworth 3 Sept. 1636
この英文の意味は、「あなたは悪いことをしたとか法律を破ったというふうに非難される前に、反論・謝罪してはならない」 ということ。簡単に言えば、「先に謝るな」 ということ。
私は、ここで、「心のなかの罪」 を持ちだすつもりはない──罪を実際に犯さなくても、心のなかで罪を犯したならば、告白・懺悔に値するという宗教的な罪悪感を持ちだすつもりはない。私は、じぶんの性質として、宗教的罪意識の強いほうだと思っていますが、本 エッセー では、私の 「修養癖」 な性質に照らして引用文を 「解釈」 するのではなくて、「生きかた (あるいは、意地)」 の ひとつとして引用文を考えてみたいと思っています。
この英文は、悪い意味で考えれば、「法律を破らない範囲において不誠実でいる」 というふうに 「解釈」 することもできますが、良い意味で考えれば、或る種の 「図太さ」 (逞しさ) を語っているでしょうね。この 「図太さ」 は、仕事では──特に、作品を作るという行為においては──不可欠な性質かもしれない。エンジニアリング では、じぶんが間違いを犯したならば、すぐさま、正すということが絶対の要件ですが、真・偽を ロジック で判断できない領域では──たとえば、文学では──、じぶんが 「納得できない」 出来栄えであっても、それ以上の出来ぐあいを実現できないのであれば、世間から出来栄えを非難される前に じぶんの出来栄えを謝るのは愚かでしょう。否、たとえ、作品を非難されても、反駁するのは あるまじき行為でしょう──なぜなら、実際に造られた作品が すべて だから。「文は人なり」 と云われているように、文学作品は作家の感性・思考を込めた具象物であって、学術書のように改訂を前提にした情報──新しい説がでたら、改訂しなければならない情報──を伝える書物じゃない。こう謂っていいかもしれない──文学は 「(作家の) 信」 を謳い、科学は 「(学説の) 真」 を説く、と。
「真」 が論点になる領域では、「間違いを正すに憚るなかれ」 という行為は、たとえ、他人 (ひと) から間違いを非難される前であっても、絶対の要件ですが、「信」 が問われる領域では、「信」 を非難されて間違いを認めるということは、そのまま、生きかたを転向しなければならないということになるでしょうね。言い換えれば、「過去を捨てる」 ことになるでしょう。「生まれ変わった」 と言っていながらも、「過去」 を しっかりと温存しているならば、いかがわしい 「信」 にちがいない。「転向」 が いかほどに辛い体験なのかは、亀井勝一郎氏の作品 「人間教育」 を読めば ひしひしと伝わるでしょう──「復活」 への祈りを込めた作品です。
「ツッパ るなら、最後まで ツッパ る (意地を通す)」──それはそれで見事な生きかたでしょう。ロジック (真) を重んじる私は、いっぽうで、意地 (信) を愛しています。それがために、私は (大学に入学してから) 三十歳までの人生を 「封印」 しています──意地がなかった。その後 [ 30歳代後半から今に至るまで ]、私は みずからの 「復活 (あるいは、再生)」 のために意地を通して TM (T字形 ER法の改良版) を制作しました。私は、TM を みずからの 「復活 (あるいは、再生)」 の身証にしたかった。いっぽうで、意地を通すために支払った対価は、思いの外に大きかったけれど、、、(You must pay the price)。
Never say you are sorry before you prove yourself.
(2010年12月23日)