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Pray to God and say the lines. (Bette Davis)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations の セクション acting のなかで、以下の文が私を惹きました。

    Acting is the expression of a neurotic
    impulse. It's a bum's life. Quitting acting,
    that's the sign of maturity.

    Marlon Brando (1924-2004) US film star.
    Halliwell's Filmgoer's and video Viewer's Companion

 
 20世紀の大俳優の一人と云われている マーロン・ブランド の言 (ことば) です。それぞれの俳優は、おのおの、じぶんの acting に関して なんらかの brief をもっているでしょうね。20世紀の大俳優の一人 イングリッド・バーグマン は、以下のように言っています。

    It's not whether you really cry. It's whether
    the audience thinks you are crying.

    Ingrid Bergman (1915-1982) Swedish film and stage actress.
    Halliwell's Filmgoer's and video Viewer's Companion

 
 映画と演劇では、acting に関する技術は違いがあるのでしょうが、acting に関して論を述べるほどに私は映画・演劇に詳しい訳じゃない。私が本 エッセー で考えてみたいのは、上に引用した二人の大俳優が述べた言 (ことば) を私の仕事 (システム・エンジニア、システム・コンサルタント) に照らして、私の仕事の性質を検討してみたいのです。

 マーロン・ブランド 曰く、「acting は、神経反応にすぎない。熟成すれば (fully developed powers をもった状態になれば)、acting などしない」 と。私の仕事で云えば、「マニュアル 通りの仕事しかできないようじゃ a bum's life だ」 ということでしょうね。ただし、仕事を覚えたての頃は、当然ながら、マニュアル 通りの仕事しかできないでしょう。マーロン・ブランド が言っているのは、仕事を続けていて、いつまでも、その状態じゃ a bum's life だということ。だから、かれは maturity という ことば を使っているのでしょう。逆に言えば、マーロン・ブランド が言っていることを入門段階のひとが真似したら滑稽にすぎない。

 私の仕事において maturity な状態というのは、50歳をすぎた頃から感じられるのではないかしら。その歳になれば、システム の構成を細かな技術の観点で吟味するのではなくて──勿論、細かな技術を使う実力があるという状態を前提にしていますが──、システム の性質を 「事業」 の観点で吟味して、システム の構成を環境適用力の観点で見直すというふうな ちから がついているはずです──「はずです」 というふうに綴りましたが、エンジニア の全員が そういう状態になれる訳でもないので、若干の人たちが そういう状態になる、ということ。俳優の全員が マーロン・ブランド のようになれる訳でもない。

 イングリッド・バーグマン 曰く、「(acting とは、『泣く』 場面で) 俳優が実際に泣くかどうかということじゃない、俳優が泣いていると観衆が実感することだ」 と。したがって、「心の中で泣いている仕草 (顔の表情だとか振る舞いなど)」 も演技として有り得るということでしょうね。だから、acting なのでしょう。逆に言えば── acting は、pretend の意味もあるので──、acting には上手・下手が現れるのでしょうね。イングリッド・バーグマン の言 (ことば) は、マーロン・ブランド の言に通じる点がありますね。

 マニュアル 通りに説明されても、聴いている ひとは感奮しないでしょう。マニュアル の説明なら、マニュアル を読めば終わる。話し手は マニュアル を熟読して再体系化し、話し手の実感として技術を伝えないかぎり、聴衆は うごかない (moved、touched の状態にならない)。「解析・再体系化」 が プレゼンテーション の技術でしょうし、その意味において、プレゼンテーション には、なんらかの acting (作為) が這入ります。そして、その acting (作為) が ミエミエ だと──その acting (作為) さえ、プレゼンテーション の教本どおりだと──聴いているほうは ウンザリ して 「大根役者」 (a lousy actor/actress、あるいは、wooden acting) と言いたくなる。じぶんの ことば で しゃべっているからと云って、プレゼンテーション の教本を超えているという訳じゃない──じぶんの ことば で しゃべっていても a lousy actor/actress を免れる訳じゃない。

 ただし、多数の聴衆を前にして プレゼンテーション を初めてやるひとを私は 「こども扱い」 しているのではない。寧ろ、そういうひとが懸命になってやっている プレゼンテーション を聴いていて 「初々しさ」 を感じて私は心の中で 「がんばれ、がんばれ」 と応援します。私が反吐のでるくらい嫌いな プレゼンテーション は、プレゼンテーション の教本どおりに acting を覚えて場数をふんで慣れて 「プレゼンテーション なんて ちょろいもんさ」 という気配を感じさせる小悧巧な ヤツ らの プレゼンテーション です。

 およそ プロフェッショナル なら、以下の点が つねに acting の基本点でしょう。

    He/She is always in firm control of his/her subject.
    (= He/She is always on top of his/her material.)

 acting に気をとられているあいだは、本物じゃないことも確かでしょうね。

 
 (2011年 1月 8日)

 

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