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He has a conscience as large as a friar's sleeve.

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations の セクション addiction のなかで、以下の文が私を惹きました。

    Every form of addiction is bad, no matter
    whether the narcotic be alcohol or morphine or idealism.

    Carl Gustav Jung (1875-1961) Swiss psychoanalyst.
    Memories, Dreams, Reflections, Ch. 12

 
 精神分析医 (psychoanalyst) の ことば です。
 麻酔剤の常套手段 (the narcotic) の一つとして、idealism (理想主義、観念論) を示している点が絶妙ですね。

 Idealism のほかにも、たとえば 「文学」 も麻酔剤 (morphine) かもしれない。職業的作家のことはわからないのですが、私のように シロート の 「文学青年」 を名のる ひとであれば、文を綴っているときに、一種安心感──あるいは、煩わしい現実から離れて、不安感が除去される気持ち──を覚えているのではないかしら [ 少なくとも、私はそうです ]。ただ、そういう状態で綴られた文というのは、酔心 (すいしん) の産物にすぎないでしょうね。酔ったいきおいの文は破型であるがゆえに一瞬めずらしさを催すかもしれないけれど、酔っぱらいが まともである訳じゃないので、酔っぱらいの綴った文も まともな批評に堪え得ないでしょう。したがって、そうならないように、本 エッセー に限らず、本 ホームページ で公にした文を私は真摯に執筆してきました。伝えたいことを正確に形にしたいと願っている書き手には酔っぱらいなどは いないでしょう──私は、いかなる場合でも、公の場で酔っているひとを信用しない。

 プレゼンテーション では、話し手 (講師) が ロジック で構成した論説を確固と述べても聴衆は──論点とされていることに対して、よほど問題意識を持っていないかぎり──うごかない (not touched)。問題意識を抱いて問題点を或る程度 defined しているひとが ソリューション をもとめて セミナー を聴きにきたのであれば、講師は、そういうひとの質問に応じながら問題点を well-defined していけばいいので、プレゼンテーション の粧いなどいらないのですが、聴衆の多くは、テーマ に若干の興味を抱いているけれど、テーマ に対して惹かれているという状態ではないことが多い。したがって、良い意味でも悪い意味でも、聴衆を酔わさなければ、聴衆は うごかない。

 聴衆をうごかすためには、話し手の言動には、なんらかの acting が施されることになります。その acting を不正 (あるいは、過剰な装飾) と感じるか、あるいは a requirement (a necessary evil) とみなすか は、難しい判断でしょうね。そして、その論説を聴いた聴衆が熱狂したときに、その反応を 「感動」 と判断するか、あるいは 「酔った状態」 と判断するかも難しい。私は、講師を勤めるとき、acting の多いほうだと私自身が思っています。acting が多いいっぽうで、私は講師を務めるとき、醒めきっています。「個性的」 と云われている講師のほとんどが、そうでしょう。私の場合、その場で──壇上にて──集中して考えながら しゃべるので、醒めていなければならないというのが実態です。じぶんが語っている論説に酔うような講師などは、そもそも、講師じゃない。語りながら論を追う──論説を展開して構成してゆく──というのが、文字通りに、seminal な態でしょう。

 さて、理想に酔いやすいひとは、家庭を顧みないで、他人を喜ばすために じぶんの持ち物──寄付のような tangible な物であれ、知識のような intangible な物であれ──を与える性質があるようです。英語の諺に曰く、

    Fools give to pleasure all but their own.

 私は公の場で酔っぱらわないと云っても、この諺が云う意味では、私は阿房なのかもしれない。世間に役立つことを願って モデル を作って モデル を普及しても、私には仕事の依頼が来る訳じゃない。それでも、私は モデル の規則を いっそう単純化して ユーザ が使いやすいようにしようとしています。そういう性質的傾向 [ 家庭を顧みないで、他人を喜ばすために じぶんの持ち物を与えること ] も addiction の一形態なのかもしれない。そして、addiction は、いかなる意味でも、悪弊にちがいない。

 
 (2011年 1月23日)

 

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