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We do no steal that which is given to us.

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations の セクション adultery のなかで、以下の文が私を惹きました。

    Sara could commit adultery at one end and
    weep for her sins at the other, and enjoy
    both operations at once.

    Joyce Cary (1888-1957) British novelist.
    The Horse's Mouth, Ch. 8

 
 私 (佐藤正美) は、本 エッセー で、adultery (姦通・不倫) を論ずるつもりは毛頭ないので、念のため (笑)。「誘惑と罪意識」 については、かつて、「反文芸的断章」 で綴ったので、その エッセー を読んでください。

 さて、上に引用した文の意味を一般化すれば、「悪事をやって、いっぽうで、その罪を詫びて、その ふたつとも同時にやることに対して快感を覚えている」 という状態ですね。しかも、それをやっている人物が気の強い、そして人生に幾何 (いくばく) か疲れて生きる悲しみの陰 (かげ)を帯びていれば、艶治 (えんや) が燻 (くゆ) って匂い、私は そのひとの囚 (とりこ) になってしまうでしょうね。気の強い・哀愁を帯びた人物が罪意識に苛まれながらも、その悪事を止めることができない──文学的には、その前提で作品を作ればいいのですが (笑)、ビジネス では、そういう前提で仕事はできない。

 われわれが じぶんの行為に手応えを感じるには、なにがしかの抑圧・阻害に立ち向かっているときが多いのではないかしら。そういう現象は快楽を感じる場合でも同じであって、背徳は魅惑的でしょうね。

 ただ、「『規則』 と戯れる」 ことは ビジネス でやるべきことじゃない、と私は思っています──それ (「『規則』 と戯れる」) は、文学的な嗜好であって、ビジネス では、もし、「規則」 を気に入らないのであれば、その 「規則」 が適用されている ゲーム に入らないか、あるいは、ゲーム に入りたいなら 「規則」 そのものを変更するよう政治的に工作すればいい。「規則」 そのものを変更するために、「規則」 を わざと破って、その 「規則」 を告発するという やりかた は、賛同される場合もあれば反感を買う場合もあるでしょう──告発には、おのおの、特殊な いきさつ があって、一般論で述べることができないので、ここでは これ以上のことを言うのを止めます。

 江戸時代の書物を読んでいたら、以下の文を目にしました (「艶道通鑑」)。

  誠が買 (かは) れぬと見たらば、早く止 (や) めるが商 (あきない) 上手。

 この文を読んで、「なるほど」 と私は思いました。しかし、私は、いっぽうで、「意地」 を愛しています。「意地」 は、じぶんにとって不為 (ふため) と知っても止められる行為じゃない。「意地を張る」 の意味は、物事の是非を考えずに、じぶんの考えを通そうとすることなので、ふだんの生活のなかでも ビジネス のなかでも、悪い意味に使われることが多いのですが、私は、折々、「意地を張る」。

 「『規則』 と戯れる」 ことは ビジネス でやるべきことじゃないと私は さきほど綴りましたが、そう言う じぶんが、「『規則』 と戯れる」 ことにおいて、折々、「意地を張る」──意地を張って 「規則」 と戯れる。そういう じぶんを じぶんでも阿房だと思っていますが、いっぽうで、私は、「意地を張る」 なかに、なにがしかの ロマンチシズム (或る種の「美学」) を感じています──そう感じる理由は、私には 「文学青年」 気質があるからでしょうね。私は じぶんの言っていることに対して酔っている訳じゃない。感受性の強かった内気な青年 (若い頃の私) が社会のなかで なんらかの身証を彫 (え) るには、それなりの 「意地」 を張らなければならなかった。そうしなければ、私は確実に絶えていただろうから。そして、その 「意地」 に運ばれてきた末が行き止まりであったと私が知ったとき、「意地」 を取り返しの付かない愚かな行為であったと嘆きつつも、じぶんの身証を示す ちから になったことを認めて或る種の慰 (なぐさ) みを覚えていることも正直な感想です。じぶんを生かしてくれた意気地が じぶんを亡ぼす、そういう人生もあっていいと じぶんに言い聞かせています。

 
 (2011年 2月 1日)

 

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