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Nothing is so common-place as to wish to be remarkable.(Oliver Wendell Holmes)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations の セクション ambition のなかで、以下の文が私を惹きました。

    A slave has but one master; an ambitious
    man has as many masters as there are
    people who may be useful in bettering his
    position.

    Jean de La Bruyere (1645-96) French satirist.
    Les Caracteres

 
 上の文を引用 (書写) していたときに、「私の盃は小さくても、私は私の盃で呑もう」 という文を思いだしました。「私の盃は小さくても、私は私の盃で呑もう」 という文は、たぶん ゲーテ が綴った文だと私は記憶しているのですが──ただし、私の記憶が曖昧なので、ゲーテ だったか森鴎外だったかを確かに述べることができないのですが──、「盃」 は喩えであって、「じぶんの感性・思考」 を意味しています。「じぶんの ちから」 を信じて 「じぶんで考える」 ことは、はたして ほんとうに できるのか、、、それに対して私は懐疑的意見を抱いています。「個性」 を尊重することは正しい──というか、「個性」 を文字通りの意味で使えば、「個性」 のないひとなど存在しないでしょう──、けれども、「じぶんの ちから」 のみで考えることは正しくないと私は思っています。「じぶんの ちから」 のみで考えると言っている人たちは──そういう人たちがゲーテ のような天才なら私は納得できるけれど、われわれ凡人について言えば──、きっと、己惚れの強い人たちにちがいない。

 ゲーテ のように言える人たちは多くの天才たちの説を すでに学び終えた人たちであって、高々、大学院くらいの学習・研究では他人 (ひと) に影響を与えるような 「独自の説」 を編みだすことはできないでしょう。「独自の説」 を産むには、当然ながら、今に至るまでの諸説を学んでいなければならない。そして、諸説は、天才たちが遺した。したがって、そういう天才たちから学ぶしかない──そういう天才たちから学んで、じぶんの説をつくることができるかどうかは、じぶんの ちから 次第でしょうね。ひとつの閉包 (じぶんの考え) の外 (そと) には、無限とも言える巨大な補集合 (他人の諸説) が存在している。

 他人を真似するということと 「じぶんの ちから で考える」 ということは、対立しないはずなのですが、それらを対立すると思い違いしている人たちが多いのではないかしら。他人の真似は、あくまで input にすぎない。「他人を真似するな」 という ことば は、正確に言えば、「他人の真似事を アウトプット するな」 ということでしょう。真似事の アウトプット は、学説で言えば、「剽窃 (ひょうせつ)」 です。じぶんに正直であるならば──じぶんの ちから に信を置くならば──、当然ながら、盗作などしないでしょうね。

 天才たちを真似ればいい (天才たちの説 [ 思考の幅・深み ] を input にすればいい)。天才たちの考えに学んで、じぶんの ちから を、益々、養うしか学習の やりかた はないのではないかしら。「三多」──看多 (すなわち書物を多く読むこと)、做多 (すなわち文を多く作ること)、商量多 (すなわち多く工夫して推敲すること)──を私は自戒にしています。

 
 (2011年 3月16日)

 

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