Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations の セクション appearances のなかで、以下の文が私を惹きました。
Appearance are not held to be a clue to the
truth. But we seem to have no other.
Ivy Compton-Burnett (1892-1969) British novelist.
Manservant and Maidservant
Things are entirely what they appear to be
and behind them...there is nothing.
Jean-Paul Sartre (1905-80) French writer.
Nausea
It is only shallow people who do not judge by
appearances.
Oscar Wilde (1854-1900) Irish-born British dramatist.
The Picture of Dorian Gray, Ch. 2
私は、講演などで講師を勤めるときには ビジネススーツ を着用しますが、普段、仕事をするときには カジアルウェア で通しています。そのために、私が スーツ を着用すると、私を普段知っている人たちは 「きょうは特別な催しがあるにちがいない」 と推測するようです――実際、かれらの推測することは当たっている。そして、仕事を離れた生活の場では、私は作務衣を着用することが多い。
私が仕事場で スーツ を着用しない理由は、スーツ を嫌っているという訳じゃない。私は 40歳代なかばまで、仕事場では、コンサルタント としての 「定番の」 服装を重視していて、服装に対して極めて配慮していました――そのことに関しては、本 ホームページ の 「問わず語り」 で述べた 「コンサルタント の服装」 を読んでみて下さい。だから、私は、職業人にもかかわらず だらしがないので スーツ を着ないという訳じゃない。寧ろ、ビジネス における服装に関しては、おおかたの人たちに比べて、私のほうが 「うるさい」 ほうだと思っています。
仕事場で スーツ を着用しない理由として、「外見など意に介さない、中身で勝負だ」 などという自惚れを私は些かも抱いていない。ジード (小説家) は、外見に関して、以下の言を遺しています。
見かけだけの価値は厳然と守ること、
そして、見かけの価値以上に見せかけないこと
名言ですね。そして、私は、ジード の言を私の服装規約にしています。すなわち、私が仕事場で着用している カジアルウェア には、私なりの所思を表現しています。すなわち、私が私であることを表現しています。私が着用する カジアルウェア は、ほとんどが黒色を基調にした服です。黒色への固執は、20歳頃から継続している。一見、服装には関心を払っていないように見えて、実は、じぶんを表現するために私はそれなりに気遣っています。私は服装に無頓着な訳じゃない。そして、他人 (ひと) と じぶんを対比して、他人と違うことを訴えるために――他人を意識して――仕事場で カジアルウェア を着ている訳じゃない、仕事場で私の思考力を最大限に作用できるように私は服装を気遣っています。ゆえに、服装 (外見) こそが そのひとの中身 (性質) を語ると私は考えています。じぶんが置かれた事態のなかで、じぶんの性質 (感性・思考) を できるかぎり最大限に作用できるようにする手段の ひとつが服装であると私は考えています。勿論、われわれは、独りで仕事をしているのではないのだから、いっしょに仕事をしている人たちが眉を顰 (ひそ) めるような服装は禁制でしょう――敢えて、そういう服装をしているのであれば、まわりの人たちに対する憤懣を顕しているのかもしれない。
「外見よりも中身が大事だ」 というような譫言 (うわごと) を私は信用しない。なぜなら、そのひとを判断するには、そのひとが表現したことのほかに手立てはないでしょう。
(2011年 4月 8日)