Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations の セクション architecture のなかで、以下の文が私を惹きました。
A very stately palace before him, the name
of which was Beautiful.
John Bunyan (1628-88) English writer.
The Pilgrim's Progress, Pt. T
上の引用文で云っている建物は具体的な建築物ですが、「建物」 の概念を本 エッセー では拡大して、抽象的な作品(学説)や文芸の作品(小説・詩など)をも ふくめて私の考えを述べて見ます。
作品を観て(あるいは、読んで)私が感動を覚える原因のひとつは、たぶん、「全体感」――個々の部分が有機的に統一されている状態が齎 (もたら) す感覚――にあると思います。すなわち 「空間」(universe, domain)──対象物が なにがしかの構造をとる範囲 [ 基本的には、「閉区域」 ]──のなかで、対象物が並んでいる状態。そして、その状態 (整った構成) は美しい。それゆえ、数学の証明式のなかにも 「美しい」 式があると思います――ただし、数式を観て、美しいと感じるほどの数学的 センス は私にはないのですが。
圧倒的な存在感で迫ってくる作品のなかには、「美しさ」 を感じさせないけれど、まるで、人体のなかで生命を養っている内蔵の塊のような 「強烈な 穢らしさ (ゆえに、生々しさ・生命力)」 を感じさせる作品があります――たとえば、ロダン の バルザック 像や、女体に絡んだ強大な蛸の浮世絵や、ボナール の裸婦画など。私はそういう作品を 「美しい」 とは思わないけれど――それらを「美しさ」の範疇にいれる人たちもいますが――、「全体感」 が 質量 (マツス、mass) になって迫ってくることを感じます。作品が表現の産物であるかぎりにおいて、「全体感」を伝えるように構成することは作家の最終的な狙いでしょうね。そして、人間も構成物 (「表現の産物」) であるかぎりにおいて然り。
(2011年 4月16日)