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...for one star differenth from another star in glory. (Bible, I Corinthians)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations の セクション astronomy のなかで、以下の文が私を惹きました。

    Eppur si muove.
    Yet it moves.

    Galileo Galilei
    Referring to the Earth. Remark supposedly made after his
    recantation (1636) of belief in the Copernican system
    Attrib.

 
 ガリレオ の言です。
 私が彼の言を引用した理由は、それを astronomy という観点で論じようと思ったからではなくて、Attrib. として綴られている註釈を考えてみたいからです。ちなみに、Attrib. は、attributive の略で、「推定上の」 という意味です。

 さて、ガリレオ の この ことば を日本語に翻訳すれば中学生でも知っている ことば です。地動説について私は ここで云々するつもりはないのであって──地動説について中学生が Wikipedia を使って調べれば、私に較べて もっと豊富な知識を披露するでしょうし──、私が論点にしたいのは、recant (=take back or give up publicly) [ 公聴会で自説を取り消す ] ことをもとめられたときに、私は それを拒絶して自説を貫き通すことができるのかという点を考えてみたいのです。しかも、敵は、社会という漠然とした対象ではなくて、具体的な最高権力機関です。

 社会 (世間の通説) と戦うことなら、私のような凡人でも、RDB を日本に導入した 30才すぎの頃から 27年間を戦ってきました──そのあいだ、数々の非難を浴びてきました。同調してくれる人たちが少ないので、さすがに、ときどき落ち込むこともあるのですが、それでも私の説は学問の説に照らして間違っているとは思っていないので立っていることができる。しかし、公聴会で喚問されたら、私は はたして自説を平然と述べることができるか。こういう覚悟は、中学生が (地動説を たとえ詳細に しゃべることができたとしても) 持っていないのではないかしら──というのは、じぶんの生活を賭けた言説ではないので。勿論、私は ガリレオ の説ほどに一級たる説を作った訳じゃないので、そういう想像は愚問にすぎないのですが、じぶんの精神が鈍 (なま) っていないことを確かめるためにも一応考えてみたい愚問であって、私が ここで じぶんに問いたいのは、そこまで 「腹を括っている」 のかという点です。「腹を括っている」 つもりでも、いくばくか腰がひけているのではないかという疑念が私にはあるので。いままでに いくどか 仕事を辞めようとしたことが それを物語っている。

 「数学のすばらしさは、その自由さにある」 と カントール が云ったそうです。しかし、かれの作った 「集合論」 は、ついには かれの精神を毀した。私が煙草を吹かしながら パソコン に向かって、いっぱしに数学をわかったふうに引用できるような気楽な ことば じゃない。それを意識するだけでも、上述した愚問──「腹を括っているのか」という自問──は、私の考えかたに対して立派な歯止めになるでしょう。

 
 (2011年 5月16日)

 

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