Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations の セクション belief のなかで、以下の文が私を惹きました。
If Jesus Christ were to come to-day, people
would not even crucify him. They would ask
him to dinner, and hear what he had to say,
and make fun of it.
Thomas Carlyle (1795-1881) Scottish historian and
essayist.
Carlyle at his Zenith (D.A. Wilson)
そうかもしれないと思わせる意見ですね。その理由を考えれば、そうとうな量の文を綴らなければならないでしょう──たとえば、キリスト の言説 [ 現代のわれわれにとっては、聖書に記述されている かれの ことば ] を吟味して、その言説の どこを嘲弄するのか、そして、そういうふうに嘲弄する理由が どうして起こるのか等々。私は、聖書を丁寧に読みましたが、本 エッセー では、聖書に関する私見を省いて、私が晩餐会に参列している場面を考えてみたいと思います──すなわち、私は、キリスト を嘲弄するかどうかと。
他人 (ひと) が キリスト を愚弄しても、私は、きっと愚弄しない。寧ろ、キリスト を愚弄している人たちに対して私は嫌悪を覚えるでしょう。私は キリスト 教徒ではないので、キリスト に対して肩入れをするつもりはない (bias を抱いてはいない)。ただ、かれの言のなかに真摯な [ ただならぬ ] 気配 (belief) を感じて、かれの言が私には譫言 (うわごと) として思えないでしょうね。では、私は キリスト の弟子になるかと問われれば、私は 「否」 と応えるでしょう。そこまでの覚悟は私にはない──私は、間違いなく、神から弾劾をつきつけられる側の凡夫です。われわれ凡夫は、60年も生きていれば、他人には言えない脛の瑕を いくつか持っているでしょう。それらには罪意識が付きまとう、「十戒」の一つも破らなかったという人物は そうそういないでしょうね。しかし、そういう罪意識に苛まれていては、たぶん、社会生活を送るのが煩わしい。その罪意識に蓋をしてしまえば、後 (あと) は程度の問題にすぎぬということになるでしょうが、だれもが罪人にすぎない。
「神」 の存在を前提にした話など、そもそも、興味はないって? それはそれでいいけれど、「十戒」 のなかで、「神」 に対する義 (believe in)──はじめの 3つの戒──を考慮外としても、他の 7つの戒律は、「個人」 の生活律を述べているので、それらの一つも破らなかったと断言できるひとはいるかしら。「無神論者」 だって? 聖書を読まないで──「神」 と対決しないで──「無神論」 もないでしょうに。それは 「無関心」 にすぎない。そして、モーゼ は、軽々しい憎まれ口を叩くような人物ではなかった。モーゼ 曰く、「わが主よ、我は もと言葉に敏き人にあらず」 「我は口重く舌重き者なり」 (第四章) と。私が聖書を読んで キリスト について感じたことは、キリスト も口重きひとだったということ。「プレゼンテーション の法則」 というような ミーハー 本を読んだ ヤツ のほうが、ひょっとしたら、キリスト に較べて、プレゼンテーション 技術は上手かもしれない。しかし、プレゼンテーション 技術のみでは ひとを動かすことはできない。そこで、belief が論点になる。2000年以上に及んで、世界の人びとを動かしてきた言説は、ただの物好きな物語じゃないでしょう、われわれの性質を揺さぶる メッセージ がある。
(2011年 6月16日)