Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations の セクション chance のなかで、以下の文が私を惹きました。
I shot an arrow into the air,
It fell to the earth, I knew not where.
Henry Wardsworth Longfellow (1807-82) US poet.
The Arrow and the Song
私は、ワーズワース 氏の この詩を読んでいないので、上に引用した文 (詩の一部) が文脈のなかで どういう意味を与えられているのかを知らない。この文のみから私が感じた印象は、小林秀雄氏が綴っていた 「無限」 概念に似ています──小林秀雄氏の文を次に引用しておきます (彼の作品 「梅原龍三郎」 から抜萃しました) 。
画集の終いに「北京秋天」という画がある。これは緊迫した感じ
の立派な画である。朝が来る毎に長安街は新しく生れた。或る日
すばらしい曙が来て、秋空は画面の中程までも下りて来た。女達
は、緑のなかにある赤い屋根の下で、めいめいもぎ取ったばかり
の「薔薇の花」を、大きな手で掴んで、身動きもせず眼を据えて、
森や山や街と一緒に昇天する機を待っているだろう。画家の姿も
見える。彼は、たった一人で無限の前で手を振っている様な様子
をしている。彼の独語さえ聞えて来る様だ――もし、あの紺碧の
空に穴を穿ち、向う側にあるものが見られるなら、どんな視覚の
酷使も厭うまい、と。だが、曖昧な感傷なぞ一切許さぬ代り、あら
ゆる情緒も拒絶している様なこういう飽くまでも明るい色彩は、
僕等を不安にする何物かを含んでいる。僕等は、言ってみれば、
熱線を伴わぬ短波の光を浴びて、恍惚境にいるのだが、どうも
幸福境にはいない様である。その辺りがルノアールとは異なる
ところだ。天は果して裂けるであろうか。
小林秀雄氏の文のなかで赤色の句は、私が ワーズワース 氏の詩を読んで感じた印象に近いので、私が色を施しました──原文では強調されている訳じゃない点を注記しておきます。すなわち、私は、ワーズワース 氏の詩句を 「芸術家の制作理論 (あるいは、制作態度)」 として読みました。
実際、私が書物を執筆するときも、あるいは、本 ホームページ の エッセー (「反 コンピュータ 的断章」 「反文芸的断章」) を綴るときも、執筆する前には、或る目的地 (結論、および それに至る道程) を考えているのですが、綴っているうちに、当初の計画とは違う歩みをすることが多々起こります──執筆計画を たとえ 立てていても、実際に綴ってみなければ、どういう結末になるのか わからない、というのが私の正直な感想です。三島由紀夫氏は、次のように述べています (「裸体と衣裳」)。
ひたすらにこの戯曲の腹案を練つてゐたので、構成はすでに考へ
抜かれ、細部の工夫も十分に凝らされ、あとはその プラン どほり
にすらすらと書ける筈だつたのである。にもかかわらず、書き
はじめると期梶Aあれほど精密に見えた プラン は隙間だらけの
ガタガタ のものだつたことがわかつて来、主要な テーマ をのぞい
ては、何もかもはじめからやり直さなければならない始末になつた。
(略)
筆を離れて思案だけに耽つてゐるときの作家の頭といふものは、
意外に窄い展望しか持つてゐない。(略)
書き出す前の腹案にはこのやうな、ひらけゆく展望とせばめゆく
修正との スリリング な交代がなく、ただ冷たい劇的構成の鉄骨
の姿だけが、目の前に立ちふさがつてゐるのである。
緻密な構成・豊饒な語彙・絢爛たる文体で知られる第一級の小説家にして此の言あり。
文例を多数集めた資料 (corpus) の有用性を私は認めますが──というか、そういう文例を集める事は私の趣味の一つなのですが──、コーパス のなかから幾つか文例を借用して logical thread に従って並べたら、他人 (ひと) を説得できる文になるかというと そんな簡単な事ではないでしょう。読み手は文を読んでいて、書き手の 「体温」 の感じられない白々しい文には そっぽを向くでしょう、「白々しい事を言ってやがる、誰かさんの ウケウリ か」 と。文例は、あくまで、じぶんの思考を促すための、あるいは、じぶんの文体を探すための ネタ にすぎない。それらの ネタ を集めて立ち位置を決めたら、じぶん (の精神) と向きあって、「空中に矢を射る」 覚悟で文を綴るべきでしょうね。It fell to the earth. I knew not where、その文を誰が どういうふうに読んで どういう感想を抱くかは書き手の与 (あずか) り知らぬ事です。
(2011年 9月 8日)