Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations の セクション clergy のなかで、以下の文が私を惹きました。
How can a bishop marry? How can he flirt?
The most he can say is, 'I will see you in
the vestry after service.
Sydney Smith (1771-1845) British clergyman and
essayist.
Memoir (Lady Holland)
私は、この引用文を読んだときに、憫笑とも嘲笑とも言い難い ややこしい笑いを浮かべていました。clergy とは 「聖職者 (the members of a church who have been ordained as ministers, priests or deacons)」 のことです。この文は、clothes (あるいは appearance) の セクション に入れてもいいかもしれない。そして、私は、三島由紀夫氏の文を思い起こしました (「太陽と鉄」)。
(略) 軍服によつて要約される個性ほど、単純明確なものは
なかつた。軍服を着た男は、それだけで、ただ単に、戦闘要員
と見做されるのである。その男の性格や内心がどうあらうと、
その男が夢想家であらうとニヒリストであらうと、(略) ただ単に、
戦闘要員と見做されるのである。
職業上の制服は、それを着る人の使命・役割を顕しています。そして、われわれは、制服を着ている人を (その人の性質がどうであろうと、) その制服が示す役割を果たす人として見ているでしょう。そのことは特殊な職業──たとえば、軍人、警察官など──に限らず、私のような普通の ビジネス・パーソン にも云えることですね──ビジネスでは、スーツ (しかも、地味な スーツ) を着用することがもとめられています。それが故に、和服を着て会社勤めする人は先ず存しない (笑)。服装については、かつて、「反文芸的断章」 (2009年 8月16日)と 「反 コンピュータ 的断章」 (2011年 4月 8日)で綴ったので読んでいただければ幸いです。
制服が仕事に対する自覚を促すのかもしれない。clergy の格好をして、女性を口説く訳にはいかないでしょうね (笑)。私は コスプレ の趣味を持っていないけれど、もし、私が clergy の恰好をしたら、私は clergy のように振る舞うでしょうね──たとえ、私が clergy として正式に教育・訓練されてはいなくても、私が clergy に関して抱いている心象 [ 書物を読んで得た知識とか 映画・テレビ などで観た映像など ] に一致するように振る舞うでしょう。警察官の制服を着ている人がいれば、その人が たとえ本物の警察官でないとしても、私は警察官だと思うだろうし、交番の中で制服を着用していない人がいれば、私は その人を警察官だとは思わないでしょうね。私は、制服を着用している人に対して、その制服が伝える社会的役割において敬意を払っています。
「公私混同する」 (mix company business with personal affairs) という言いかたがあるように、public と private との区分けは、英国・米国の社会では日本の比じゃないと云われています。「らしさ」 と言いかたがありますが、「x らしく振る舞う」 という文においては、x に代入する値は public な役目・任務であって、private な性質じゃないでしょうね。x として個人的性質を代入したとたんに──たとえば、「マサミ さんらしい振る舞い」 とか──、推測・判断の物指しが ブレ る。私は自分でさえ自身を掴みかねているのだから [ 私は、じぶんの精神を落ち着いて観るほうですが──「反文芸的断章」 を読んでいただければ、それがわかるでしょう──、それでも、じぶんを掴みかねていますし、ほとんどの人たちが そうではないかしら ]。私は、人物評など信用していない。もし、誰かが人物評を言っても、私は、その人が相手を そういうふうに観ているとしか思わない。アラン 曰く、「眼の前にない物の外見を喚起する力などというものは、人のいうほど、また人の信じるほど、強いものではない」──文中の 「外見」 を 「性質」 に読み替えてもいいかもしれない。いっぽう、制服は、それを着用した人の役割を はっきりと示しているという点で、われわれの印象に形を与えています。ただし、その印象を private にまで敷衍すべきではないでしょうね。
(2011年11月 1日)