Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション complaints のなかで、以下の文が私を惹きました。
We have first raised a dust and then complain
we cannot see.
Bishop Berkeley (1685-1753) Irish churchman and
philosopher.
Principles of Human Knowledge, Introduction
Berkeley の哲学について、哲学史の書物で読んだことがあるのですが、哲学は そもそも あらすじを読んでわかる言説じゃない。私が哲学史を読んだ理由は、「誰が何を如何に考えたのか」 を調べて読書案内 (読書の道しるべ) にしたかったからです。私は、若い頃から Wittgenstein の著作を丁寧に読んで来て、彼以前の哲学──彼に至るまでの哲学──を学ぶために、道しるべとして哲学史を読んだ次第です。Berkeley の著作を私は一冊も読んでいない、彼の名前を John Locke と David Hume といっしょに覚えているにすぎない。故に、上に引用した文が著作の中で、いかなる意味で述べられたかを私は知らない。ここでは、一つの アフォリズム として読んでみましょう。
「自分で埃を立てておきながら、埃の所為で周りが見えないと不平を言っている」 と。哲学上では、たぶん、形而上学に対する非難なのでしょうが、小林秀雄氏の言を借りれば、「僕は幽霊の正体をみよ、と言うのではない。要らざる幽霊をでっち上げるな、と言うのだ」 (「文学界の混乱」) と同じ意味であると考えていいでしょう。専門的研究の 「蛸壺」 化が云われて久しいのですが、「蛸壺」 の中で 「要らざる幽霊」 を培養してはいまいか、あるいは、幽霊 (様々なる意匠) をでっちあげていないにしても、たとえば、データ 設計を語るに様々な流派が 「共通に」 語ることのできる礎石が存しないという現象は一つの科学 (情報科学) として不自然ではないか。そして、装飾に対する反撥、これは、本来、科学の特質のはずではないか。
(2011年12月 1日)