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If you would know contentment, let your deeds be few. (Democritus)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション contentment のなかで、以下の文が私を惹きました。

    Notwithstanding the poverty of my outside
    experience, I have always had a significance
    for myself, and every chance to stumble
    along my straight and narrow little path, and
    to worship at the feet of my Deity, and what
    more can a human soul ask for?

    Alice James (1848-92) US diarist.
    The Diary of Alice James (ed. Leon Edel)    

 
    If I had not been born Peron, I would have
    liked to be Peron.

    Juan Peron (1895-1974) Argentine statesman.
    Referring to W.H. Taft, US president (1909-13)
    The Observer, 'Saying of the Week', 21 Feb 1960    

 
 Contentment の意味は、a feeling of quiet happiness and satisfaction。日本語訳は 「満足」。ただ、satisfaction に比べて、contentment には、「すべてが思い通りにはならなかったけれど、それだからといって不満を起こすようなことはないので、満足している」 という ニュアンス があるようです── Content implies appeasement to the point where one is not disquieted or disturbed by a desire for what he does not have, even though every wish is not fully gratified (Merriam Webster's Dictionary of Synonyms)。
 一番目の引用文は、まさに その ニュアンス が現れている文ですね。二番目の引用文は、アルゼンチン の大統領に 3回 就任した ペロン 氏の言ですが、ペロン 氏 (の政治) については、アルゼンチン 国内でも評価が二分しているそうです──「改革者」 とも 「独裁者」 とも評されているようです。

 いずれの引用文も 「自分に対して満足している」 という表白ですね。そして、一番目の引用文では 「諦観」 (あるいは、「達観」) に近いものが感じられて、二番目の引用文では 「自信」 (あるいは、「自負」) が感じられます。私は、「文学青年」 的性質が強いので、一番目の引用文に共感を覚えますが、二番目の引用文で表明されているほどの自信を私は持っていない──「もし人生が再版できるものなら、私は校正したい」 (クレア [ 詩人 ]、「友への手紙」)。いずれにしても、こういう感慨は、年をとってはじめて実感として吐露される性質のものでしょうね。今後もっと伸びてゆく筈の青年が──あるいは、50才以前の人たちが──こういう感慨を吐露するのを聴けば、私は苦笑してしまう。たとえば、40才代というのは、仕事では一番に絶頂にある頃なので──仕事の種類によって絶頂期を迎える年令は様々でしょうが、会社勤めをしている我々ビジネス・パーソン を念頭に置けば──、40才代を通りぬけてみなければ、仕事を語ることなどできないでしょう。一仕事をやり遂げてみてはじめて自分自身がいかなる人物であるかがわかる。仕事や社会と真っ向からぶつかる以前に人生云々と言われても、その人の抱負 (夢) としては聴くことができるけれど、「社会の中でどのような実績を遺したのか」 という問いに対しては未だ仕掛かり中の状態でしょう。勿論、50才代・60才代も棺桶に納まるまでは仕掛かり中なのですが、40才代で一仕事できなかった人が 50才代・60才代で大仕事を為すというのは稀有な事でしょう。若い頃には、仕事は (年令にかかわらず) 一気に完成できると思い込みがちですが、還暦近くになってから振り返って自分の仕事を観察してみると、ひとつの仕事をやり遂げるには長い身支度 (の年月) のあったことがわかる。

 「青春は失策、壮年は苦闘、老年は悔恨」 という ことば を英国の或る政治家が言ったそうですが、たいがいの人たちは、50才を超えた頃に、「このままの生きかたで人生を終えていいのか」 という思いに駆られるようです。私もその頃にそう思いました──私は今の自分に対して満足していない。そして、満足してないがゆえに、私は仕事を拡充して自分を もっと生育させたい。私は自分が手をのばして直ぐに届く範囲にある事を為して満足するつもりは更々ない。逆説に響くかもしれないのですが、キーツ (詩人) は次のように言っています。

    人生は バラ の花の希望だ、ただし咲かない間だけの。

 我々は いつも これから幸福になるという夢を抱いているのではないかしら。若い人たちの夢も初老にあっては──私は還暦に近い──悪徳であるのかもしれないけれど、私は知りたいと思ったことを学ぶには 40才になっていました。還暦に近くなって功なきを羞じていますが、58才にして 40才代の仕事の不足を知ったのであれば、今さらながら改革を志しても辱 (は) じにはならないでしょう。社会とぶつからないままに社会を批評するというような若年寄りに私はならなかったと思っているので、もう 10年間ほどは壮年の部類に属していたいと希 (ねが) っています。骨を折って建設したい。

 
 (2012年 2月23日)

 

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